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もしも百年戦争で英国が勝利したら?
はじめに
フランス北西部に位置するドーバー海峡沿岸の地域、ノルマンディーは長年ヨーロッパ史の係争地となった場所である。このノルマンディーという地名は、最初スカンディナヴィア半島のほうからヴァイキングと呼ばれるノルマン人(ゲルマン人の一派)の海賊集団が上陸してきたことによって、古フランク語で「北の人間の土地」と名付けられることになった。ノルマン人は現在のイングランドから南イタリアにかけての土地を征服して(ノルマン・コンクェスト)、イングランドとフランスの両国の辺境伯領としてノルマンディー公国という国を作り出した。しかし後にフランドル地方(現:ベルギー)の領有問題や複雑な王位問題を解決するため、両国は百年戦争を起こした。その後はフランスの領土として確立することとなる。そして、第二次世界大戦下連合国によるフランスの解放作戦の橋頭堡として上陸作戦を展開させた舞台もこのノルマンディーである。
歴史の表舞台になったのはノルマンディーに限らず、ドーバー海峡沿岸全般、特にフランドル地方では大きな出来事を起こしていた。三十年戦争を経て英国はスペインとの対立時オランダと協力していたし、ナポレオン戦争後ウィーン議定書にて、ベルギーの独立が成立したなど歴史的に大きな出来事が頻発した場所でもあった。
今回は特に英国とフランスの関係について概観し、もしも百年戦争で英国が勝っていたら世界はどうなっているのかを検討していきたいと思う。
前史
今回はフランドル地方も考慮に入れた上でドーバー海峡沿岸の土地についての歴史を細かく概観していこうと思う。
まず、現在から約2082年前、時代は紀元前58年に遡る。この頃イタリア半島を中心とした地中海沿岸の大帝国、ローマ帝国という国が存在していた。その国の統治者のユリウス・カエサルはガリアを遠征し、フランス・ベルギー全域を支配し、ブリテン島にも進出した。この頃の西欧から中欧にかけての先住民族にはインド・ヨーロッパ語族のうちのケルト人が居住していた。ローマ帝国はこの民族と同化していったのだが、紀元後5世紀になるとゲルマン人が進出し、ローマ帝国の帝位は分裂して東で生き残り、ケルト人は西欧やブリテン島、特にアイルランドへと逃げていった。
やがてゲルマン人は、ベネルクスからフランス、ドイツ西部及び南部、スイス、オーストリア及びスロベニアを領土下に入れたフランク王国という国を建国した。その国はキリスト教を受容し、特に496年クローヴィス1世の治世には、ゲルマン人に伝わったアリウス派からアタナシウス派に改宗された。しかし、この頃国内で王家の中での派閥争いが発生している中、他国を見てみると中東で始まったイスラーム勢力(ウマイヤ朝)がアトラス山脈を越え、ジブラルタル海峡からスペインに北上してきた。フランク王国はトゥールとポワティエという二つの都市の間の川にて宮宰カール・マルテルと共にイスラーム軍を迎え撃つことに成功した。756年、フランク王国はランゴバルド王国を制圧し、カール・マルテルの子息であるピピン3世は獲得したイタリア半島のラヴェンナ総督府領やチェゼーナ、リミニ、ペサロ、サン・マリノ、モンテフェルトロ、ウルビーノなどの都市を教皇に寄進した。更に800年、その子息であるカール1世及びシャルルマーニュは戴冠を受け、その後にフランク王国を西フランク(フランス)、東フランク(ドイツ・オーストリア)に最終的に分裂し、中部フランクをイタリア北部として成立することで合意した。
一方、878年のブリテン島はウェセックス王国のアルフレッド大王がイングランド全土を統一した。しかしこの頃北欧からノルマン人による襲撃が始まった。フランク王国の中央集権化が衰退している中でのこの動きは脅威そのものであり、立ち向かおうとはせず、身を潜める者も多く存在した。特に西フランク(現:フランス)は、北方からのノルマン人の進出に苦慮しており、10世紀初頭にはノルマン人のロロに西フランク北部の地にノルマンディー公国を建国した。一方こうした中でブリテン島はアルフレッド大王により一時的にデーン人の襲撃から守られ、927年にイングランド王国が建国したが、結局は北方民族に支配されることとなり、その後即位したノルマンディー公はイングランドの王位に就いたことで、その後の英仏関係は様々な紛糾が引き起こされた。地方の領邦権力の成長につれ、王権は弱体化していった。カペー朝フランス王国が建国されると、イスラーム勢力の活動が活発化したため、ビザンツ帝国を始めとした十字軍の運動が始まった。第3回十字軍ではフランス王国国王フィリップ2世の他、イングランド王国国王リチャード1世、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世も参戦したが、結局仲間割れや道中の死によってイングランド王国国王単独で、アッバース朝のサラーフ・アッディーンと対立することとなり、講和を持ちかけることに成功した。またこの頃フランスとイングランドの王家争いが始まっていき、イングランドのプランタジネット朝は、ノルマンディーやアンジュー(フランス西部領土)を奪った。その一方南部に広がっていたアルビジョワ派が異端とされ、フランス統一のための十字軍が派遣された。またフランスは財政難にも苦しむことになり、国内の聖職者に課税をかけて教皇とも対立をした。そして教皇をアヴィニョンに移転させ、フランス王権の教皇の優位性を示した。一方、イングランドではプランタジネット朝第3代の王ジョンの代にイングランドはフランス王フィリップ2世との抗争にやぶれ、大陸領土のほとんどを失った。そのため、ジョン王は欠地王とのあだ名も持っている。1215年貴族の一斉反抗に敗れたジョンは議会による承認なしに新たな課税はできないなどとするマグナ・カルタを認めさせられた。これは王権を抑制する議会権力の伸長の第一歩となった。そして1277年になるとイングランドはウェールズを征服した。
史実
百年戦争
フランスはカペー朝以来周りの諸侯と比べると権力基盤が弱く、パリ周辺を抑えるのみであったが、フィリップ2世やフィリップ4世の時代に王権を拡大させイングランドやローマ教皇の勢力に対しても優位に立った。しかし1328年にシャルル4世の死によって男子の継承者を失い、王位はシャルル4世の従兄弟にあたるヴァロワ伯フィリップに継承された。フィリップは1328年、フィリップ6世としてランスでの戴冠式を迎えたが、戴冠式に先立って、イングランド王エドワード3世は自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統を主張して、フィリップ6世のフランス王位継承に異を唱えた。エドワード3世は自らの王位継承権を認めさせるための特使を派遣したが、フランス諸侯を説得することができず、1329年にはフィリップ6世に対し、ギュイエンヌ公として臣下の礼を捧げて王位を認めた。
またジョン王は領土を一時的に無くしていたものの、ギュイエンヌ公領は依然としてイングランド領として保っていたことやフランドルの毛織物資源の獲得を巡った領土問題や、スコットランド内の反イングランド国王であったデイヴィッド2世はフランスのフィリップ6世の庇護下に入ったため、かねてより険悪であった両者の緊張はこれによって一気に高まった。
フィリップ6世は、ローマ教皇ベネディクトゥス12世に仲介を働きかけたようであるが、プランタジネット家が対立の姿勢を崩さなかったため、1337年5月24日、エドワード3世に対してギュイエンヌ公領及びポンチュー伯領の没収を宣言した。これに対してエドワード3世はフィリップ6世のフランス王位を僭称とし、10月7日、ウェストミンスター寺院において臣下の礼の撤回とフランス王位の継承を宣誓した。11月1日にはヴァロワ朝に対して挑戦状を送付し、
百年戦争が開戦することとなった。エドワード3世は最初にフランスへの羊毛輸出禁止を言い渡した。これによりフランドル伯領に大きな打撃を受け、反乱が勃発するようになった。1338年、エドワード3世は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世と結び、舅であるエノー伯等の低地(ネーデルラント)諸侯の軍を雇って北フランスに侵入した。何度か中世騎士道物語さながらに挑戦状を送り決戦を迫ったが、フィリップ6世は戦いを避け、低地諸侯も戦意が低かったため特に成果を挙げることができないままだった。1341年、ブルターニュ公ジャン3世が亡くなるとブルターニュの継承をめぐって、ジャン3世の異母弟であるモンフォール伯ジャンと、姪のパンティエーヴル女伯ジャンヌの間で争いが起きた。ジャンヌの夫シャルル・ド・ブロワがフィリップ6世の甥であったため、モンフォール伯はエドワード3世に忠誠を誓い、ナントを占拠してフランス王軍に対峙した。1343年に教皇クレメンス6世の仲介によって休戦協定が結ばれたが、一連の戦闘によってイングランドのエドワード3世の上陸を許してしまった。その後もクレシーの戦い(フランス王軍は数の上では優勢であったが、指揮系統は統一できておらず、戦術は規律のない騎馬突撃のみで、長弓を主力とし作戦行動を採るイングランド王軍の前に大敗北)やカレー包囲戦でも続々と敗戦していき、両者は1347年、教皇クレメンス6世の仲裁によって1355年までの休戦協定が結ぶが、その年に黒死病(ペスト)が流行し始めたため、恒久的な和平条約の締結が模索された。1350年にフィリップ6世が死去、息子のジャン2世がフランス王に即位した。1354年、アヴィニョンで和平会議が開かれ、エドワード3世はジャン2世に対し、フランス王位を断念する代わりにアキテーヌ領の保持、ポワトゥー(ポワティエ)、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲を求めた。しかし、ジャン2世はこれを一蹴、このためイングランド王軍は1355年9月に騎行を再開した。ポワティエの戦いでもクレシーの戦いと同じ轍を踏み大敗戦、ジャン2世はロンドンへ捕虜として連行された。
シャルル5世は敗戦による慢性的な財政難に対処すべく、国王の主要歳入をそれまでの直轄領からの年貢のみにたよる方式から国王課税収入へと転換した。彼は1355年に規定された税制役人を整備し、国王の身代金代替という臨時徴税を1363年には諸国防衛のためという恒久課税として通常税収とした。このため、シャルル5世は税金の父とも呼ばれる。税の徴収によって、フランス王家の財力は他の諸公に比べて飛躍的に伸び、権力基盤を直轄領から全国的なものにすることとなった。シャルル5世は外交による勢力削除にも力を入れる。フランドルはルイ2世によって平定されていたが、彼自身がイングランド寄りの姿勢を見せ、1363年には娘マルグリットとケンブリッジ伯エドマンド(黒太子の弟、後のヨーク公)の婚姻を認めた。シャルル5世は教皇ウルバヌス5世に働きかけ、両者が親戚関係にあることを盾に破談を宣言させた。1369年には末弟フィリップ(後のブルゴーニュ公フィリップ2世)とマルグリットを(両者も親戚関係にあるが教皇の特免状を得て)結婚させて、フランドルの叛旗を封じた。また、1364年にはブルターニュ継承戦争が再燃し、オーレの戦いでシャルル・ド・ブロワが戦死してイングランド王軍が勝利を収めたが、シャルル5世はこれを機会に継承戦争から手を引き、第一次ゲランド条約を結んでモンフォール伯の子をブルターニュ公ジャン4世として認めた。しかし、ジャン4世に臣下の礼をとらせたことで反乱は封じられ、イングランドはブルターニュからの侵攻路を遮断された。その頃にシャルル5世は総大将ゲクランをカスティリャ王国に派遣。ペドロ1世はアキテーヌのエドワード黒太子のもとへ亡命。1366年9月23日、黒太子とペドロ1世の間でリブルヌ条約が交わされ、イングランド王軍はカスティーリャ王国に侵攻した。1367年、ナヘラの戦いに勝利した黒太子は総大将ゲクランを捕え、ペドロ1世の復権を果たしたが、この継承戦争によって赤痢の流行と多額の戦費の負債を抱えることとなった。戦費はペドロ1世の負担だったはずだが、彼は資金不足を理由にこれを果たさず、遠征の負債はアキテーヌ領での課税によって担われた。しかし、これはアキテーヌ南部のガスコーニュに領地を持つ諸侯の怒りを買い、パリ高等法院において黒太子に対する不服申し立てが行われた。1369年1月、黒太子にパリへの出頭命令が出されたが、これが無視されたため、シャルル5世は彼を告発した。エドワード3世は、アキテーヌの宗主権はイングランドにあるとして異議を唱え、フランス王位を再要求したため、1369年11月30日、シャルル5世は黒太子に領地の没収を宣言した。
1375年7月1日、フランス優位の戦況を受けて、エドワード3世とシャルル5世はブルッヘで2年間の休戦協定が設けられるに至った。しかし、両陣営は互いに主張を譲らず、1376年には黒太子が、翌1377年にはエドワード3世が死去するに及んで両陣営は正式な平和条約を締結することがなかった。その後もヘンリー5世の侵入によりフランスは窮地に追いやられていくことになる。
イングランド摂政でヘンリー6世の叔父ベッドフォード公ジョンは、アングロ・ブルギーニョン同盟にブルターニュ公ジャン5世を加え、ノルマンディー三部会を定期的に開催することによって財政の立て直しを計った。また、シャルル7世は、反イングランド勢力との同盟を結び、ブールジュでの再起を狙っていたが、イングランド側は、ロワール河沿いのオルレアンを陥落させ、勢力を一気にブールジュにまで展開する作戦を立てた。これに対して、1429年4月29日、イングランド連合軍に包囲されたオルレアンを救うべく、ジャンヌ・ダルクを含めたフランス軍が市街に入城した。フランス軍はオルレアン防衛軍と合流し、5月4日から7日にかけて次々と包囲砦を陥落させ、8日にはイングランド連合軍を撤退させた(オルレアン包囲戦)。このオルレアン解放が、今日、ジャンヌ・ダルクを救世主、あるいは聖女と称える出来事となっている。1449年、東部方面隊・中部方面隊・西部方面隊に別れたフランス軍は3方からノルマンディーを攻撃し、11月4日にはルーアンを陥落させた。これに対し、シェルブールに上陸したイングランド軍は1450年4月15日、アルテュール・ド・リッシュモン大元帥が指揮を執るフランス軍と激突、このフォルミニーの戦いにおいてイングランド軍は大敗を喫し、8月には完全にノルマンディー地方から撤退する他なかった。そして結局百年戦争はフランスの勝利として終わったもののカレーだけはイングランドの領土として残され続け、1558年にカレーを返還された。その後ジャンヌ・ダルクはイングランドに捕虜として派遣され、処刑されることとなった。
その後のフランドル地方
その後フランドル地方は神聖ローマ帝国とフランスの覇権争いが起きたが、ネーデルラントはハプスブルク家、及びスペインの影響下にあった。この頃のスペインはフェリペ2世の在位中に最盛期を迎えた。1580年から1640年にかけて王朝連合によってスペイン王がポルトガル王も兼ねるようになり(イベリア連合)、中南米やアジア・アフリカ沿岸に点在するポルトガルの海外植民地を獲得した。また、ヨーロッパではネーデルラントや南イタリア(シチリア王国、ナポリ王国)などを属領とし、フィリピンなどの従来植民地と併せた広大な領土を統治する大国となった。しかし、その治世は多難であり、イタリア戦争、宗教改革、第一次ウィーン包囲といった脅威にさらされ、プレヴェザの海戦、アルマダの海戦での敗北など、衰退の兆しも現れ始めていた。スペイン王フェリペ2世は、妻のイングランド女王メアリー1世が1558年に死去するまでイングランドの共同王であった。敬虔なカトリックである彼は、プロテスタントである義妹エリザベス1世を異端者であり、違法なイングランド統治者であるとみなしていた。フェリペはエリザベスを打倒して、カトリックであり、かつイングランド王位継承権者である前スコットランド女王メアリー・スチュアートを王位につけようとする陰謀を支持していたが、メアリーを幽閉していたエリザベスが1587年に彼女を処刑したために阻止されてしまった。また、スペインが植民地から自国に物資を移送する途中で、幾度となくイングランドの私掠船に襲われたため、フェリペはエリザベスに海賊行為を取り締まるよう申し入れたが、エリザベスは聞き入れるどころか海賊行為に加担していたことも、英西関係を悪化させていた。またエリザベスはオランダでの反乱に軍事支援したことも相まって、ドーバー海峡にて衝突した。しかし無敵艦隊の航海は悪天候のために遅れ、ガレー船4隻とガレオン船1隻が艦隊から脱落しており、コーンウォールのセント・マイケル山から視認されたのは7月29日(旧暦7月19日)のことだった。この知らせは南部海岸沿いに構築された狼煙連絡網によってロンドンへ伝えられた。その夕刻、プリマス港のイングランド艦隊は上げ潮に囚われていた。スペイン軍は作戦会議を開き、防御側の船は錨を降ろして無力化しており、潮に乗じて港を襲撃して、ここからイングランド本土を攻撃することが提案された。しかしメディナ=シドニア公は、そのような攻撃はフェリペ2世から明白に禁止されていると却下し、東方へ進みワイト島へ行くことを選んだ。それからほどなく、チャールズ・ハワード・エフィンガム卿を司令官、ドレークを副司令官とする55隻のイングランド艦隊が、無敵艦隊と対するべくプリマス港を出港した。ハワードはドレークの戦闘経験を認めて権限の一部を譲っており、ジョン・ホーキンスが後衛司令官となった。しかしスペイン側は悪天候の中での航海であったため、無敵艦隊であれど、損害は多く、結局何隻かは撤退することとなり、負けを認めることとなった。そして戦後にネーデルラント連邦共和国が誕生するようになった。しかしブルボン絶対王政のもとでフランスは強大化したため、南ネーデルラントに侵攻し、オランダ継承戦争が開戦した。しかしオランダ侵略戦争はオランダ総督ウィレム3世の抵抗を受けて、オランダの独立を承認しなければならなかった。そして南ネーデルラントはオーストリア領となり支配は続いたが、カンポ・フォルミオ条約にてフランスに併合される。そしてウィーン会議にて、オランダとベルギー、1867年にはルクセンブルクも分離独立し、ベネルクス三国が成立するに至る。
もしも英国が百年戦争に勝ったら?
百年戦争のフランスの勝因は、イングランド相手に長期戦に持ち込んだことにより、聖マルグリット、聖カトリーヌ、そして大天使ミシェルなど神からの幻視を受けたジャンヌ・ダルクが巧みな軍事指揮能力を行ったことによるものであった。英国・フランス双方の味方である神聖ローマ帝国もこの頃は大空位時代により各国が分裂しており、勢力は五分五分だ。つまりイングランドはジャンヌ・ダルクの登場前までに短期決戦を行わなければ、勝利は難しいということである。ここで肝心なのはスコットランド問題などの外交問題と、軍人の動きだ。まず、この戦争において英国側が厳しかったのは、スコットランド問題とフランドル地方に対する措置である。百年戦争前に、イングランドはまずスコットランド問題での原因となった王位継承問題としてイングランドの国王と婚姻するなどの双方の利益になるような条件を出し、和解することが必要だ。そして百年戦争のフランドル地方に対しては、フランスのみに資源を渡さないという手順を少し変えた条約を締結する必要があると考えた。そして英国は海軍力が長けているため、ドーバー海峡の制海権を取り、補給路を遮断したり、港湾都市を含めた都市に電撃的な進撃を行う必要があるだろう。特にオルレアンやパリに対する進撃力は強めたほうがいいだろう。
このようなことを行い、もし無事にイングランドが勝つことになれば、どのようになるだろうか。まず影響が出始めるのはおそらくイングランド国内であり、スコットランド問題が結婚によって解決すると史実よりも早くグレートブリテン王国として統合する可能性がある。また、神聖ローマ帝国とは違う形で対立することになる可能性はある。もしくはハプスブルク家などはこれに対抗する勢力とする形で、スペイン、イタリア半島を味方につけるどころか、プロイセンやスウェーデン、ロシアなども敵対してくる可能性がある。また統治方法も言語もフランスと英国で混ざることになり、経済成長も史実以上に勢いが強まる。大航海時代などでもイギリスは主導権を握る可能性が高いだろう。
おわりに
しかし百年戦争後の混乱を見る限り、イングランドが仮に勝ったという史実以上の影響は残せたとしてもフランスの領土を保持することは難しいように思える。その後に宗教改革や、大航海時代が始まると考えれば、フランス国内から市民革命が始まる可能性は高いし、宗教改革による混乱は史実以上に大きくなり、最終的には破綻する可能性も高い。そのためこの世界と英国やフランスが、カナダのケベック問題、帝国主義社会、第一次世界大戦、第二次世界大戦にどのような影響を与えるのかは未知数だ。もしかしたら関係性が破綻している以上、同じ連合国として属さないかもしれないし、もしくは関係性が回復し、史実通りのような動きになるのかもしれない。