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下村健士さん・51歳

インタビューお二人目は下村健士さん。娘さんの不登校をきっかけに不登校のオフ会で出会いました。現在は『さくらんぼ学園』というデモグラフィックスクールのスタッフさん&子ども教育デザイナーをされている下村さん。さくらんぼ学園を子供たちと一緒に立ち上げた方がどういった人生を歩まれてきたのか気になって気になって気になりすぎて、今回インタビューをお願いしました(^^)

インタビュー:美空

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ーーー今日はよろしくお願いします^^自己紹介をお願いします。   

下村健士(しもむらたけし)といいます。現在51歳(インタビュー当時、2019)です。 しーもんって呼ばれてるんだけど、しーもんってあだ名は 僕には3歳年上の兄がいて、兄に憧れていた。兄の少年時代のあだ名がしーもん。僕も真似 して、しーもんって名乗っています。 

ーーー私もしーもんさんって呼んでもいいですか? 

 はい、いいですよ^^  

ーーーまず私たちの出会いの話をしたいのですが・・。最初はいばしょクラブ(不登校サークル)のオフ会でしたね。 二回目にお会いした時は、これから話にも出てくると思いますが『さくらんぼ学園』にお邪魔しましたね、その節は有難うございました。

では前半の人生年表について色々お聞きしたいんですけど(書いてもらった年表を見ながら)しーもんさんは1968年生まれ、出身は東京なんですね。
 

 はい^^記憶にはないけど生まれて最初の数年は千葉の鴨川ってところに住んでいました。

そういえばね、 何年か前に自分はどんなところで生まれたのかな?って一人旅をしたんだよね。そしたら、僕が住んでいた家から歩いて10秒くらいのところに海があって。海は元から好きなんだけど、そんなところに住んでたとは思いもしなかったよ。  

ーーーどうして改めて行ってみようと思ったんですか?   

ずっとどこかに自分のルーツを知りたいっていうのがあって。 親がどういう風に生きてきたのか興味があって。 

ーーーご両親はどんな方だったんですか?    

父は自衛官をやっていて厳しいけどその反面、とにかくよく笑う人だったね。防衛大学ってとこ出てそのあと幹部候補生になり、その後、同期の中では一番の出世である基地の軍司令になって、まぁそれって校長先生みたいなもんかな。 母は感情の激しい人で。可愛がる時は可愛がるけど、怒るときは烈火のごとく怖い人だったね。   

ーーーへえ・・意外です。しーもんさんは凄く穏やかだから、穏やかなお母さんのイメージがありました。
お母さんとの思い出について聞かせてください。
 

そうだね、母は体が弱かったから子供には色々なことが出来るようにしてあげたいって人だったんだと思う。 オルガンも習ってたんだけど、出来ないとカンカンに怒って特訓させて、この特訓はどこまで続くんだろ・・・って思ってたね(笑)

僕に自転車の練習をさせる時も出来るまで何回も叱られながら猛特訓させるんだよね。 こっちはびーびー泣きながらで凄くスパルタだったね。 今思えば気持ちはわからなくはないけどね。
他にも習い事をいくつかやっていたけど、何をやっても母からのプレッシャーが強くあったね。   

ーーーそれは大変でしたね( ;∀;)良い方の思い出は?

 良い思い出は、母は全く物怖じしないで色んなところに連れて行ってくれて、とにかく人を信じるところがあって、人に壁を作らないでどんな人のところにもにどんどん入っていくような人だったよ。涙もろくて困ってる人のところにすぐに飛んでいっちゃうところがあったね。   

ーーー江戸っ子人情を感じます^_^
その後に東京に引っ越しされたんですか?

僕が小3の時に母親が体調を崩して長い間入院しちゃったから祖父のところに引き取られて、父は単身赴任になって。 その後はじいちゃんと暮らしてた。でもじいちゃんは明治の人って感じなんだよね。 例えば雷が鳴って『ぎゃあああ(ToT)!』って怖がると『ばかもん!!!男が雷を怖がるな!!』って怒られて(笑) 
雷よりもじいちゃんの方が怖いって思ってたよ(笑)
兄弟の中で一番叱られたのも僕だったんだ。  

ーーーやっぱりお母さんの親って感じですね(笑)   

その時はじいちゃんが大っ嫌いだったんだけど、今振り返ると影響っていうのもかなり受けてて

ーーーそれはどういうところでそう感じたんですか?

じいちゃんは北海道の炭鉱山で働いていたんだけどね、北海道の話を僕に沢山してくれて多分ここで(年表の大学生の時期を指し)僕が北海道に行ったのはその影響がかなりあったんじゃないかと思うんだ。 北海道の大学に行くと決まった時は本当に喜んでくれたよ。

母親が入院している生活はちょっとさみしくて、内にこもるようになり、中学高校もパッとしない感じで。青春とは無縁という感じでした。 
高校卒業も近くなってこのまま東京にいたらダメになるんじゃないかなって怖くて 『人生を変えるには勉強するしかない!』って、それまで全く勉強しなかったのに勉強を始めたんだだよね。でも結局二年間浪人してね、それから北海道の大学に行ったんだ。 

ーーー大学ではどういうことを学んでいたんですか? 

『学んだ』とはちょっと違うかもしれないんだけど、最初の4年は主に2つのことをやってた。 1つは明治や昭和初期のそういうバンカラ気質 
(バンカラとは※一般的には言動などが荒々しいさま、またあえてそのように振る舞う人をいう。※ウィキ調べ)
が残ってる寮に入って、皆お酒を凄く飲むし(20歳以上のみ)雪の時に窓から飛び降りるジャンプ大会って いうのがあったり、赤ふんパレードっていって赤いふんどし姿で街を練り歩いたり。僕はそこに入るまではそんなに声も大きくなかったんだけどそこで周りの影響を受けて、自分の枠を少し外れたっていうか大きな声が出せるようになった。

もう一つ、気の弱いところを鍛えないといけないって思って、思えば小5の時に『オカマ』ってあだ名をつけられてから、それをずっとずっと引きずって、当時は体重も40キロ台で凄くひょろひょろしてたの。
その反動で喧嘩みたいなスポーツがいいなって思ってね、大学にアイスホッケークラブがあって入ったんだよね。でも入ったはいいけど全然上手くならなくて、でもね絶対に辞めたくなくて石にかじりつくような気持ちで4年間やった。

 結果的にレギュラーにもなれなくて試合にも殆ど出れなかった。そこで感じたのは劣等感っていうのかな。 あの頃は自分をひたすら変えよう変えようってしてたんだよね。まぁ言ってみれば自己否定と変わりないよね。

出来ない自分を感じるからもっと頑張らないといけないって思って、出来もしない目標を立てるわけ。それが凄い苦しかったんだよね。 

かなり忙しいクラブで、大学の前半はそういう感じだったね。そして寮もお酒をいっぱい飲むようなところだったからあまり勉強もせず2年留年しちゃったんだよね。 クラブを卒部してから、6年目の時に、たまたま見学に行った手話サークルに入ったの、その手話サークルはすごく居心地がよかったんだよね。 

ーーーどういった方がいらっしゃったんですか?

聴覚障害の人もいるし、近くの看護学校の学生さんがいたり、学生じゃない地元の人も混ざっていたりしたね。そこで思い出深かったのは、手話で喋った時に今まで自分が言えなかったことが言えたような気がしたのね。 

ーーー日本語だと上手く喋れないけど、英語だと凄く喋れる日本人っているって聞いたことあるなって思い出しました。 

そういうのも似てるかもしれないね。 英語もそうかもしれないけど、手話で向こうが喋っててもわかんない時もいっぱいあるんだよ。 そういう時に一生懸命わかり合おうとするんだよね。

話すスピードがゆっくりになるんだよね。 相手の言いたいことと自分が言いたいことが伝わりあった時は本当に嬉しくてね。 あと、手話をやってから表現のチャンネルが増えたんだよね。 

もしかしたら母親の影響かもしれないけど、その時は僕一人でも、聾唖の人たちの中にぽんって入っていって、一人で行くとなかなか上手く話せなくて結構大変なんだけど、そこでしか学べないものがあって大変ながらも手話を使って話してるとどんどんわかるようになっていってそれが凄く面白くて。手話を使うと顏の表情をいっぱい使うんだよね^^
家に帰ると顏が痛くなるくらいで(笑)やっぱ好きなことなんだろうね、手話やってると勝手に努力しちゃうんだよね。 口だけじゃなくて顔全体でで喋るから、筋肉と一緒に今まで動かなかった感情も動いたっていうか。

卒業の年に入ったサークルだったから一年しかいなかったんだけど、本当に楽しかったよ。 

ーーー嬉しさや楽しさが伝わってきます(*^_^*)
その後大学を出てからどうされていたんですか?
 

映画を見るのが好きで、漠然と映画を作る仕事がしたいなって思って凄い映画を作って、まるで負けてるチームがホームランを打って大逆転するみたいな、人生を逆転してやろうと。 

多分、悶々とした不完全燃焼の青春を過ごしたからかもしれないけど。
で、松竹とか大手を受けに行ったんだけど、浪人と留年を合わせて4年でしょ。

面接の人にそういう人は取らないよって言われてね。どうしたらいいのかなって思ってたら TV番組制作会社があるって知って、春休みに帰省で東京に帰っていた時に、アポなしで沢山の会社に何軒も何軒も直接訪ねて行ったんだけど、どれもピンとこなくて

でも最後に訪問した会社になんかこの人すごくかっこいいと思った人がいて、そしたらそこの会社が採用してくれてね。そこは4人でやってる番組制作会社だった。 

ーーーテレビ番組を作っていたんですか? 

うん。最初はADといわれる仕事だったよ。 僕はテレビSって局の番組が多かったんだけど、番組が出来上がらなかったら穴が開いちゃうし、凄く責任がある仕事だよね。 

ーーーちなみに一番組はどのくらいの時間をかけて作るものなんですか? 

30分番組と15分番組を僕は持ってたんだけど、大体1か月~3か月・・かな。 伝えたいことを誰が見てもわかるように作らないといけないからそれが一番難しくてね。 

何を言いたいのかちっともわからないっていう作品をテレビ番組は作っちゃいけないんだよね。 テーマがあってそれをわかりやすいように作っていかなくちゃいけないんだよね。 

ーーー確かに・・。言われてみれば『何が言いたいのか全然わからない』番組ってあんまり見 たことないような気がします・・・ 

コミュニケーションと同じだと思うけど、人に話をするってさ、自分が話したいことをただ 話すことが『話をする』ってことじゃなくて 相手がわかるように話すってことが『話をする』ってことだよね。 

ーーーなんだか手話の話と繋がってる気がします。話すことも番組も全部『会話』なんです ね。 

これは僕の先輩に教えてもらったことなんだけど自己表現とコミュニケーションの違いがあ るとしたら 『わかってくれわかってくれ』ってそんなに赤ちゃんみたいなことばっかじゃなダメなんだ よね。 自分をわかってもらう努力をしろ、いつまでも赤ちゃんじゃないんだって言ってたんだよ ね。 

ーーー年齢の話に戻りますけど、26歳でTV番組制作会社に入って、34歳の時に退職されて36 歳で神奈川県の小学校の先生になられたんですよね。 その年齢から小学校の先生になるっていうのは聞いたことがなくて、どうして先生になられたんですか?

制作会社を退職してから、人と直接関わる仕事をしたいなあと、ヘルパーの免許を取ろうと思って、丁度講習に通っていた時に、市の広報に小学校の介助補助の募集が載っていて

それは小学2年生の車いすの男の子の介助をする仕事だったんだけど、これはヘルパーの仕事にも生かせるし、丁度いいかもしれないなって、それでその男の子の介助を始めたんだよ ね。 

その子が所属していたクラスの担任の先生がとてもいい先生だったんだよ。今でも覚えてる のはクラスでのケンカの解決の仕方かな。 

例えば、黒板を使いながらAちゃんの言い分はこうだねって書いて その時にBちゃんも色々言いたいんだけど、先生はまずAちゃんの言い分から、途中でBちゃんが口を挟んでも、あなたの話もちゃんと聞くからって、納得させてか待たせて、Aちゃん にもう言いたいことないか?って聞いて

Aちゃんはもう全部言ったって。じゃあ次はBちゃんだって、Bちゃんの言い分も全部聞いて、それが黒板に書いてあって、そ れを二人で見ながら、お互いのどこを変えたらいいかって二人に考えさせるんだよね。 

この点だったら変えられるとか、ここは大切にしたいとか話し合うんだよね。 そうするとすっきりするんだよ。お互いが全部聞いてもらえてるし、お互いの意見もちゃん と見えるし改善点がわかってくるんだよね。 

ーーー先生も子供だからって適当な扱いをするわけでもなく、お互いに納得できますね。

そういうのをみているうちに、先生になれそうな気がしてきて先生になったら収入にも恵まれるし、それから教員免許と採用試験の勉強を始めて、無事合格できたんですよ。 

ーーーそして晴れて先生になったんですね。最初は何年生を受け持っていたんですか? 

3年生だね。ただね、なってから気づいたけど先生って無茶な仕事だなって思ったよ。 例えばね、4月1日に新しい学校に赴任して、2日の日は、新任の先生たちは研修センター に集められて学校には行かずに一日研修を受けるのね。
僕が先生になった年は、3日4日が土曜、日曜で学校に入れなくて、そして5日、月曜日が始業式。次の日からどんどん授業が始まるんだけど、生まれてから教壇に立ったこともないのでもう必死でした。 

ーーー先輩の先生から教えてもらったりはしないんですか? 

勿論教えてもらうこともあるけど、周りもみんな同じ状況で先輩の先生も自分の仕事で精一杯でちゃんと教えてる余裕もないんだよね。 周りにも相談できる人もあんまいなくてさ。 

ーーーうむむむむ。。。先生を教える先生っていうのはいないもんなんですね・・・。 

大体どこの学校でも似たようなものだと思うけど、そういう感じだったね。 一応、皆研修センターに行って研修は受けるんだけど、現場での研修はほとんど無いんだよね。 
だからこれだけ今の学校が荒れちゃうのもしょうがないなって思っちゃうんだよね・・・。 

ーーー最初は凄く大変だったんじゃないんですか(T_T)?

 大変だったね。きっとどの先生に聞いても大変だと思う。 授業だけじゃなく、その時その時で子供同士のトラブルもあったりするし、僕は車いすの子 のクラスで色々見ていたからそれが役に立つことも多かったけど、現場を知らない大学を出たばかりの若い先生だとなかなか難しいよね。 

ーーーそうですよね。。。ちょっと色々根掘り葉掘り聞きたいけど何から聞いていいのか・・・。うーん、例えば最初の一年間とかどうでしたか? 

そうだねぇ・・先生になったとはいえ僕は子供時代からあんまり勉強が出来る方ではなくて、授業で漢字を書くじゃない?僕が漢字を黒板に書いてると子供たちがざわざわし始めるの。 

『先生、漢字が違うよー』とか言ってくるのね『本当だ違うー』とか周りの子も言い始める の(笑) でもある女の子が『先生も一生懸命やってるんだからそんなこと言っちゃダメだよ!』とか 怒ってくれてるんだよね(笑) 

ーーーなんだか逆に良い感じですね(笑) 

最初の1年はそんな風に子供たちに助けられたね。子供たちに恵まれたクラスだった。 ある日、落ち込んだ気持ちで学校のベランダから外を眺めていたら車がやってきて、そうしたらうちのクラスの子が車の窓から顔を出して『下村先生ー(^^)/!』って元気に叫んでくれ るんだよね。 そういうのに本当に励まされたよね。 

ーーーとても良い子達だったんですね(*^_^*)他にも何か子供たちとの良い思い出ってありますか? 

良い思い出かぁ。本当に沢山あるけど、ある年に一年生を担当した時かな。その時僕がいたのは山の中の小さな学校だったの。 

学校って決められたことだけをやってればいいんだろうけど、でも子供たちと決められたこと以外の楽しいことをやりたくて。

山の中だから、近くに素敵な自然がたくさんある。子供たちを外に連れ出すのも規則とか 色々あって大変だったけど、計画を立てて近くに綺麗な渓流に連れて行ったんだよ。 

そこで子供たちと魚釣りをしようと思ってたんだけど、行ったはいいけど全然魚は釣れないし、思ったよりも全然つまんなかったんだよね。 

『すげえつまんないね(笑)』とか、そんな話を皆でしたことが楽しくてね(笑) 『全然釣れないー(>_<)』ってみんな文句言い始めて(笑) 

ーーーあはは(笑

あとはね、4年生を担任していた時だけど、大雪が降ったんだよね。 最初は雪だるま作ったりしてたんだけど、その後雪合戦になるわけ。そして最後はみんなで 担任の僕を狙うわけ。 

最初は『やめろよー』って楽しんでるんだけど、どんどんみんなも容赦なく本気で投げてくるから 顔に当たったりして、こっちもカアッと頭にきちゃって(笑)

子供たちを一人一人捕まえて 雪の中にどーんってみんな投げ飛ばしたの(笑) そうしたら子供たちが『こんなに雪合戦じゃねー!!』とか言ってね(笑) それで結果的にみんな泣いたり、カンカンに怒って教室に帰っていったの。 
いつもは帰りの会をやるんだけど、その日は『もうこんな学校来るもんか!』って言ってみんな帰っていって、こっちも頭にきているから『お前らなんかもう来なくていい!!』ってこっちも怒って (笑) 

ーーーあはははははは(笑) 

そんな大ゲンカしてさ、皆を泣かせたんだよね(^-^;(笑)
でもその後さすがに後味が悪くて、職員室から一軒一軒の家庭に電話して事情を説明して 『すみませんでした』って謝ってね(笑)
 とあるお家はお父さんが出てくれて『すみませんでした』って謝ったら 『いやいいんですよ。子供とケンカしてくれる先生で本当に良かったと思ってますよ』って 言ってくれてね。 

それ聞いて泣きそうになったよね。職員室から電話したから泣かなかったけどね(笑) 

ーーーいやぁ。聞いてて良いクラスだったんだなって思います。逆に大変だったことってどんなことがありましたか? 

そうだね・・・。成績を付けることが大変だったね。 成績に『できる』を沢山付けると校長先生が文句を言ってくるの。 

『隣のクラスとの繋がりはどうなるんだ』とか『このクラスだけできるが多いと困る』とか。これは自分の考えなんだけど、悪くつけたからって良くなるわけでもないし、成績を極端に操作してるわけでもないし、問題ないんじゃないかなってん思ったんだよね。 子供に『できない』ってつけることにどんな意味があるの?って。 

僕の中ではそこは絶対に譲れないとこだったんだよね。 例えばさ15点の子が頑張って30点取りました。 そんな子にもっと頑張ろうという意味で『できない』ってつけてそれがどうなるの?って 

僕にはその子の頑張りがよくわかるから『よくできた』ってつけたんだけどね。 

そもそも子どもを育てるのに『通知表』とかいらないと思うんだよね。 作るのにも相当の労力がかかるし、誰を納得させるために出してるか全くわからないよ。

あとは、僕は工夫して授業を作るのが大好きだったから、それをみた校長先生から研究主任っていう役目に任命されたの。 研究主任というのは他の先生たちを面白い授業をさせるために動かさないといけなくなるの。
先生たちの中には毎日が大変だから新しいことはやりたくない。でもそれを僕が良い風に変えていかないといけなくなるんだけど、やりたくない人に何かやらせるのは凄くいやなのよ、僕は。

他にも研究ために作らなきゃいけない書類が山のようにあったけれど、それもうまく分担ができなくて全部自分でやってたの。 チームで分担してやるっていうのが僕は苦手だったんだよね。 
それで仕事をどんどん抱え込みすぎて日々の授業もあるし、もうだんだんと学校に行くのが辛くなったの。

その頃、丁度妻のお父さんが倒れて、妻はしばらく実家に帰らなきゃいけなくなって娘がまだ小学一年生だったかな。朝学校に送り届けてから自分も学校に行って、帰りに学童に迎えに行って。
そんな生活をしてたらある日パンクしちゃったんだよね。 

ーーーそれでその時期に休職されるんですね。

そう。そしてちょうど僕が休職した時期と、娘が不登校になったのが同じ時期だったんだよ ね。 

ーーーその時娘さんは何年生だったんですか?

2年生だね。 

ーーーで、そのあとに44歳の時に自分で学校を作るんですね。 

学校の先生をしていた時に『窓際のトットちゃん』っていう本に出会ってこういう学校が作れたら良いなって思ってたんだよね。 

トットちゃん

ーーー私、窓際のトットちゃんって読んだことが無くて、良かったら内容としーもんさんはそのお話を読まれてどのように思ったのかを聞かせてください。

 4年生を受け持った時に、生徒に教えてもらった本なんだ。 黒柳徹子さんの自伝小説で小学校1年生の時の話からスタートするんだけど、徹子さんは落ち着きがない子で普通の枠からはみ出ちゃう子だったんだよね。 
窓から外をずっと眺めていたり、机の引き出しを開けては閉めてを繰り返したりいつも先生に叱られていたんだ。

ある日お母さんが学校に呼び出されて 『この子はこの学校ではやっていけないから他の学校を探してください』って言われちゃったんだよね。

要するに退学させられちゃったの。 そこでお母さんが見つけてきたのがトモエ学園っていう学校で、そこの学校は普通の学校じゃなくて、校庭に電車が三つくらい並んでいてその車両が教室に なっていてね。 

ーーーえええええ!?車両が!? 

そこに机が置いてあって、そこで勉強するっていう学校だったんだけど それを一目見てトットちゃんはすぐに気に入っちゃったんだって^^ 
そこには小林先生っていう校長先生がいるんだけど、その小林先生が一番初めに面接をするんだよね。 お母さんを帰らせてトットちゃんと二人だけで。 

『今から君の話を聞かせてくれ』って言ってトットちゃんが『なんでも話していいの?』って言ったら 『うん、なんでも話していい』って言ってくれるの。 トットちゃんもここぞとばかりに何でも話すんだよね。

大好きな飼い犬の話や、今日は電車で来たんだけどどうやったら切符屋さんになれるのか? とかなんでも好きな話をずーーーっと話して、小林先生も話を一つ一 つ聞くたびに『他にはないか?』って。 
トットちゃんも話したいことを気の済むまで全部話して、話すことが一つもなくなって『もうないか?』って聞かれて『うん、もうない』って言った んだって。 そしたら『それじゃあ今日から君はここの生徒だ』ってそこに通うことになったんだって。 結局4時間話を聞いていたらしいよ。

それについて徹子さんが本の中で書いてるんだけど 『トットちゃんは生まれてからこんなに人に話を聞いてもらったことがなくって、私はこの人を信頼できる』って思ったんだって。 そういうシーンもとってもいいなぁって思ったんだよ。 何かあるたびに『君は本当は良い子だ』って小林先生はいつも褒めてくれるんだよ。 

トットちゃんは前の学校のこともあって、自分はどこか他の人と違うっていう疎外感を持っていたんだけど、小林先生に出会って自分のことを信じられるようになるの。それがのちの黒柳徹子さんを作るんだ。 

僕はトットちゃんも好きだけど、小林先生の在り方っていうのがすごくいいなぁと思ってね。学校って子供を育てるところなんだよな、こういう先生になりたいなってずっと思ったんだよね。
(画像はしーもんさん新聞掲載時)

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ーーーとても良い先生ですね・・・うぅ・・(T_T)(感涙)
現在開校されているさくらんぼ学園を作った経緯を聞かせていただけますか?

そうした僕の夢もあるけれど、あとは、娘がいたことが大きいなあ。
娘が学校に行かなくなって、色々な教育施設やフリースクールを巡ったんだけども、あまり マッチしたところがなくて。そんな時に娘が『ここならいい』っていう学校があったんです。

それがデモクラテックスクールっていう種類の学校だったの。そういうものを作ろうって思った。
※サドベリースクールとも呼ぶ。中心的な特徴は、生徒はルールの範囲内で自 由に行動できること。 またそのルールを学校参加者自身(主に生徒とスタッフ)により決定していくことである。 それによりデモグラフィックスクールでは、生徒は学ぶべき内容を学校から押し付けられるとい うことがなく 自らの好奇心のおもむく事をルールの範囲内で追求することができる。 また子どもたちを「クラス」に分け、「クラス」単位で行動するように強制することはしない。※ウィキ調べ) 

ーーー学校を作ろうと思ってまず具体的に始めたことってなんですか? 

まず『始めよう!』って決めて、それからアメリカのサドベリーバレースクールに行ったり、フィンランドの教育を実際に見に行ったんだよね。 

ーーーフィンランドの学校はどんな感じでしたか? 

フィンランドは学校もそうだけど、まず国がゆっくりしてるなって思ったよ。 せかせかしてなくて、向こうの人たちは人生をくつろいでるって感じがした。 全然慌ててないんだよね。ゆったり感がこっちとはなんか違うんだよ。 

ーーー『人生をくつろぐ』なんて考えたことも聞いたこともなかったです。

何故人生をくつろいでいるように見えるんだろうって思ったんだけど、人に何かをさせようとしてないんだよね。 大体の人は『早く決めてよ』って思っちゃう、人にも自分にも何かをさせようとしてるんだよね。 言わなくてもそれが出てる。

向こうの人は人に何かさせたいっていうものがあんまなかったんだよね。 街に活気があるってわけじゃないんけど、でもくつろいでるんだよね。 公園に行くとたくさんの大人が芝生で輪になってゆっくりしてるの。
大人が楽しんでるんだ よね。

ーーーそこから帰ってきてさくらんぼ学園を始めたんですよね。始めてみてどうですか? 

キャプチャ

始めてから5年になります。子どもは自分の力で伸びていくって考えてやってるんだけど、最初はやっぱり何かをさせようってしていたね。 自分がもっと子供たちに対して色んなことが出来るんだと思っていたんだけど、無力さを感じることも多々あるよ。これをさせようあれをさせようって思いが取れてくるといい学校になるのかなって思ってる。

ーーー有難うございます^^
前半はこのくらいということで、次は後半へ。

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ーーーでは後半よろしくお願いします。 後半はテーマの中から事前に二つ選んでもらった質問に答えていただきます。 
まず一つ目は『自分を成長させてくれたもの』これはなにかありますか?
 

前半でも話したけどアイスホッケーは成長させてくれていたんだなって思っています。 体力的、精神的に苦しかったことのナンバーワンかナンバーツーくらいで、『根性』って言 葉はあんあまり好きじゃないけど やっぱり根性出してやったことって自分を成長させてくれるって気がするね。 あれが無かったらもっと気弱な自分のままだっただろうしね。 でも思い出しても本当に辛い練習の数々だったよ。 

ーーー練習はどういった内容だったんですか? 

アイスホッケーの練習は大きく分けて2種類あって、陸でやる練習と氷の上でやる練習とあ るんだよ。 陸でやる練習は筋トレやサッカーやバスケをしたりインターバル走とかきついけど、割と楽 しいんだよね。 氷の上の練習がとてもきつかったから陸の上での練習は気晴らしになっていたというか(^^;(笑) 氷の上の練習は体をどんどん追い込んでいくもので 60m×30mのリンクを、スケート靴を履いて端まで走って、また帰ってきてという往復ダッシュを何回も何回もやるんだよね。

スケート靴って滑るってイメージだと思うけど、実際は走ってるんだよ。 何回も何回もダッシュで走って、それがね、すごくきついのよ・・・。 

ーーーがんばりましたね・・・。

 きつかったけどやっぱり上手くなりたいんだよね。頑張っても頑張っても上手く出来ない時って、出来ないことばっかり見ちゃうんだよね。

自分にダメ出しばかりする。別の方法をやったら上手くいったのかもしれないけどね。 同期からも後輩からも追い抜かれていく、それが苦しかった。
誰もが甲子園にいけるわけじゃない、誰もがオリンピックに行けるわけじゃない、努力しても叶わないことって誰にでもあるんだよね。でもそういう中でしか学べないことっていうのがあってね。

出来るようになった人の人生の方が幸せのように感じるけど、でも人生は続いていく。 その時上手くいかなかった体験が後でどんなふうに生かせるようになるか、それはその苦しい中ではまだわからないよね。

ーーーそうですね。失敗しないと学べないことって沢山ありますもんね。 では二つ目ですが『感謝している人』を選んでいただきました。どなたでしょうか。 

沢山いすぎてなかなか絞るのが難しいけど、特に覚えているのは 最初の制作会社に入った時のプロデューサーのEさんって人。この人には本当に感謝してる。 この人は僕が社会に出て初めて会った大人だったと思う。その頃会社に女性の先輩がいて、ある時ロケにカメラクルーを連れて出かけたんだけど、行き先がわからなくて帰ってきちゃったことがあってね、そのロケは一日15万円くらい必要で、でもそれが全部無駄になっちゃんだよね。 

そんなことがあったのに、そのプロデューサーはその人に必要以上に責めなくて、次から気をつけろくらいに言っただけだったんだ。それを見て僕はこれって大人の対応だなって思ったんだよ。 必要以上に怒らなくてもそのスタッフさんはちゃんと反省してるんだよね。その人の怒り方には余計なものがないっていうかね。感謝してるっていうか尊敬してるって感じかもしれないね。

 そしてもう一人感謝しているのは妻ですね。

 ーーーおおお、奥様(////)

僕は彼女と会うまで色んな人に振られまくる人生だったのね。 気が多くてすぐに人を好きになるタイプで、アタックしては降られるを何度も繰り返していたんだけど、妻の場合は向こうが僕のことを好きになってくれたんだよね。 その時に僕は作戦を変更したんだよね。 

僕を好きになってくれた人と結婚してみようって。

だけど、今思うとねその作戦は成功したんじゃないかって思ってる。 常に自分のことを応援してくれて、僕が何か失敗したとしてもずっと僕を信じて応援してくれてるの。気が付いたら彼女のことをとても好きになっていたよ。 いつも僕に文句ばっかり言う人と結婚してたらとんでもないことになってたと思う(笑)

僕が自分のことを考える以上に僕のことを考えてくれて、本当に有難いって思うよ。 やっぱり自分が辛い時に支えてくれた人は感謝しちゃうよね。 

ーーーとても素敵です♡ではテーマ別のお話はこんな感じで終わります^^有難うございました。 

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ーーー最後にお知らせなど。 何か仕事でも趣味でもお知らせがあればお願いします^^ 

今ね、僕は山本太郎さんを応援してます。でも政治を応援してるっていうと世間的にちょっと話しにくいような空気があるよね。

でも僕は彼の『世の中を変えていこう』っていう気持ちを応援したくて、彼が出てきたことで勇気をもらったんだ。 

さくらんぼ学園もそんな世の中を変えていくことの一つだと思うの。 じゃあ良い世の中って何だろうって考えてさ。どんなことでも対立することってあるじゃない?政治だけじゃなくて、たとえば考え方や意見が違ったとしても、心の奥では相手のことを信じられるようなそういう世の中っていいなぁって思ってさ。 

人目を気にして言いたいことを言えない世の中よりも、やりたいことをやっていくっていうのが僕の一つの人生テーマであって。でもそれってあんまり深刻に決意してやるってことでもなくて、世の中を変えるってあんまり大変なことじゃなくて 『こういうもんなのかな、何だこんなことだったのか』 っていう気持ちを沢山の人と共有出来たらいいなって。

お知らせとは違うかもしれないけど、そういうことを誰かと一緒にやりたいなって思ってます。 さくらんぼ学園も一人でやるってわけじゃなくて、さくらんぼ学園をきっかけに人と繋がりたいね。

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 ーーー有難うございました^^

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ーーーこのインタビュー企画の目玉と言っても過言ではない(笑)質問で繋がっていくコーナー(^_-)!いえーい!!!面識のない人から面識のない人へ質問で繋がっていけたら面白いかなぁっていう思い付きのコーナーです☆

№1のさやかさんから№2の方への質問です!!!
『一人でカラオケに行く場合や、もしくはおうちで一人でいるときに口ずさむ歌って何ですか?』

僕はカラオケはあんまり行かないけど歌は好きですよ。 よく鼻歌で歌ってるのは『中島みゆきのヘッドライト・テールライト』プロジェクトXのテ ーマソング。 でもねぇ実は僕はあんまり歌わなくて、代わりにピアノを引くから、よく引いてる曲でもいいかな? 

ーーーいいですよ(^_-)-☆ 

黄昏のワルツっていう加古隆さんの曲で、そっちの方がよく鼻歌で歌ってるね。

ーーー有難うございました!!!

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私はしーもんさんを自慢したい
しーもんさんは凄いんです!
今回始めてゆっくりと人生を聞かせてもらって、穏やかなしーもんさんしか知らなかったので色々と衝撃を受けました。
大学時代には喧嘩みたいなスポーツがやりたいとアイスホッケー部に入ったり、飛び込みでテレビ局を回ったり、30代半ばから小学校の先生になったり、自分で学校を作ったり・・・。
本当に波乱万丈で人生をお聞きするというインタビューの素晴らしいところを改めて感じたお話でした。
個人的に心に残ったインタビュー中の言葉は『人生をくつろぐ』です。
しーもんさんがフィンランドに行ってそこで感じた感覚だそうですが、きっと私が行っても同じことは感じないと思うんですよね。
人を通して他の国を知ると自分で体験したわけではないのに、なぜかスっと心に実感として感じられることがあります。
人生をくつろぐなんて考えたこともありませんでした。このお話を聞いた日から人生をくつろぐためにはどうしたらいいのかを考え始めました。
さくらんぼ学園にも一度お邪魔したことがあります。私は不登校時代があったとはいえ、一般的な学校に通っていたので正直デモグラフィックスクールのことを全然知りませんでした。
自由な学校とは言うけれど、体験してみると自由というのは自分の責任の元にあるもので、必要な課題のある一般的な学校よりもずっとずっと厳しいものかもしれないと感じました。
けれど、自由とは自分を考えるということでもあるように思えて、『自分』がわからないという人が多い現代の中で、小学生や中学生の時から自分の意志で一日を組み立てることの大切さを考えました。これは生きていく力の大きな土台になるんじゃないかなって。
誰にでも向き不向きはあると思いますが、このタイプの学校を必要としている人はきっと多くいると思います。
しーもんさんは年上の目上の方だけど、どこか少年のような好奇心にキラキラした瞳をしている気がして、子供たちと一緒に悩み考え、一緒に進んでいける素敵なスタッフさんだと感じました。

最後に・・・

51歳のしーもんさん。
51年間の人生を聞かせてもらって、今生きていて大変なことがあっても
先を生きている先輩が元気で笑って歩いていてくれると安心できます。
未来を安心していていんだと見せてもらっているようでした。

しーもんさん有難うございました!

美空

良かったらサポートをお願いします☆インタビュー時のお茶代にさせていただきます。美味しいお茶は人生を優しく振り返らせてくれるお手伝いをしてくれます(*´ω`*)