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小学校生活初めての運動会を前に思うこと

学校生活の中での大きなイベントの一つ、それは運動会。

我が愛しい息子さんの学校では10月に開催される。
コロナ禍でもあり、午前中のみ、各学年、徒競走と表現(ダンス)そして選抜のリレーといったシンプルなもの。
わたしは運動会、実はやってもやらなくてもいい派というか、
やるんだったら規模はこのくらいでいいと思っている。

運動会が嫌いなわけではない。
でも、これって子どもたちの為というより、保護者のためだったりする気がしてなんか気乗りしないのだ。

大概の子はおそらく素直に練習に打ち込むのだろう。
けれど、必ず、どうしても運動会が苦手な子がいるのだ。

理由は様々だろう。
運動が苦手。沢山の人が一堂に会して行う活動が苦手。
大きな音が苦手。待ち時間が苦手。
競争することが苦手。負けるのが嫌だ。
練習が大変。通常授業と違うスケジュールのなるから嫌。
などなど
あげればきりがないだろう。

そして、そんな苦痛に耐えて、学校に行って、参加する。

運動会ってそうまでしてやることなのかとも思ってしまう。
我が子が走っている、踊っている、集団の中でしっかり活動している。
それを見て、子の成長を感じる…

いかんいかん。
なんだか愚痴になってしまいました。

けれど、思うことはいろいろとあるのです。
なんか、もっとスポーツフェスティバルみたいなもので
いろんなスポーツが体験できるとか、トップアスリートの人に教えてもらえるとか、そうゆう運動会があってもいいと思う。
子どもが主体的に参加できるスポーツ体験の場。
そんな運動会、どこかにないかしら。

こんな風に思うようになったのは息子さんが教えてくれたことの一つだったりする。

息子さんは運動自体は好きだし、運動会も好きなのだ。
けれど、なにせ、いつも全力。
幼稚園時代しかり、リハーサルで燃え尽きてしまうのだ。

今年も先日、全体でのリハーサルがあったので、一足先に、終わった感じをにじませている。
なんとか、気分を盛り上げてと思い、現在、試行錯誤中なのだけれど
今朝はもう、疲れたと泣いてしまった。
運動会がいつあるのか分かっている。
そして、練習だということも理解しているのだけれど。
どうにも同じことを同じようにやるのが解せないのか。
どうして、本番のような練習をして本番になるのかが解せないのか。
この予行練習がどうにも納得がいかないのだ。
やるなら、やってしまえ!そんな感じなのだろうか。
真実は分からないけれど

夏休みが明けてようやくいつもの時間割に慣れてきたのに
運動会の練習があると、変わってしまって…
普通の勉強がしたいのに…

と泣いてしまった。
分からないでもない。

そんなわけで、行く、行かないの攻防が続くのである。
とは言え、想定内というより、予想より、息子さんは学校に行けている。
素晴らしすぎるというか、よく、毎朝、頑張れている。

これも成長なのだろうか。
それとも諦めなのだろうか。

いろいろと考えても分からない。

この運動会を終えて、また何か見えてくるのだろう。

そしてここで一つ言いたい。

本当に辛いのならば参加しなくてもいいと思う。
学校に行くのが嫌になるほどならば
参加しなくてもいい。
そう思う。
できることをやってみて、それでもできなければ、
それでも嫌ならば無理をすることはないと思う。

ただ、運動会には改善の余地はあるし、何かしら苦手を回避する方法もあるはずなのだ。
そこをうまく工夫して開催することも必要な気がする。
昔からずっとやっている運動会。変わらない運動会。
これを伝統というのだろうか。

うまく運動会に参加できるようにわたしたち親は頑張らなければならない。

けれど、毎日、朝、送っていくと誰かしらの小さな悲鳴が聞こえる気がする。もう、今日は休んでいいよ。と言いたくなってしまうのをぐっとこらえている。

わたしが過敏なだけなのだろうけれど、他の子まで気にしてどうするんだとも思うけれど

子どもたちはうんとうんと頑張っている。

素直に言える子、言えない子。

やるだけのことをやったのなら運動会なんて実はどうでもいい。

今年もそんなことを考えてしまった。
来年は華麗にスルー出来るタフな心持になっていたい。

共に頑張ろう。

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