見出し画像

帚木蓬生著「ネガティブ・ケイパビリティ答えの出ない事態に耐える力」朝日新聞出版

 みなさんは「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を耳にしたことはあるだろうか?この言葉は「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」を指す。本書は、精神科医で作家の帚木蓬生(はなきぎ ほうせい)氏が、読者に「ネガティブ・ケイパビリティ」を紹介し、人生で苦難に出会った時の生きる力として活用してもらうことを目指した書籍である。

 まずに筆者の帚木蓬生氏に触れる。帚木氏は東京大学仏文科卒業後TBSに勤務。2年後に退職し、九州大学医学部を経て精神科医に転身する。開業医として活動しながら、その傍らで執筆活動に励む。1995年 「閉鎖病棟」を出版。精神科病棟で起きた殺人事件を巡って、患者たちそれぞれが描く様々な思いを巡らす姿を描き、第8回山本周五郎賞を受賞。映画化もされ、筆者の代表作となる。その後も、医学に関わる作品を中心に、多くの作品を上梓。多数の文学賞を受賞している。

 はじめに、筆者が、ネガティブ・ケイパビリティとの出会いを語る冒頭の文書を紹介する。

 ネガティブ・ケイパビリティとは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処のしようのない事態に耐える能力」をさします。あるいは、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味します。この言葉に出会った時の衝撃は、今日でも鮮明に覚えています。(中略)
 精神科医になって五年が過ぎ、六年目に入った頃でした。この時期は、精神科医として多少の自信をつける反面、自分の未熟さにまだ道遠しと思う、相反する気持ちに揺れ動く頃です。要するに、精神科医の仕事そのものと、その根底にある精神医学の限界に気づき始めた時期だったのです。(中略) そんな折、眼に飛び込んできたのが、「共感にむけて、不思議さの活用」という表題を持つ論文でした。(中略)医学論文にはまず冒頭に要約があります。それはこうなっていました。
 人はどのようにして、他の人の内なる体験に接近し始められるのだろうか。共感を持った探索をするには、探究者が結論を棚上げする創造的な能力を持っていなければならない。現象学や精神分析学の創始者たちは、問題を締めくくらない手順、つまりは新しい可能性に対して心を開き続けるやり方を、容易にする方法を発展させた。加えて、フッサールの現象学的還元と、フロイトの自由連想という基本公式は、芸術的な観察の本質を明示したキーツの記述と、際立った類似性を有している。体験の核心に迫ろうとするキーツの探求は、想像を通じて共感に至る道を照らしてくれる。(中略)今では有名になった兄弟宛ての手紙の中で、キーツはシェイクスピアが「ネガティブ・ケイパビリティ」を有していたと書いている。「それは事実や理由をせっかちに求めず、不確実さ、懐疑の中にいられる能力」である。
 不確かさの中で事態や情況を持ちこたえ、不思議さや疑いの中にいる能力。しかもこれが、対象の本質に深く迫る方法であり、相手が人間なら、相手を本当に思いやる共感に至る手立てだと、論文の著者は結論していました。(中略)
 医学論文はそれまでも多数読んでいましたし、その後現在まで数えきれないほど読んでいます。しかし、この論文ほど心揺さぶられた論考は、古希に至った今日までありません。このときの衝撃をもって学んだネガティブ・ケイパビリティという言葉が、その後もずっと私を支え続けています。難局に直面するたび、この能力が頭をかすめました。この言葉を思い出すたびに、逃げ出さずにその場に居続けられたのです。その意味では、私を救ってくれた命の恩人のような言葉です。
 なぜならヒトの脳には、後述するように、「分かろう」とする生物としての方向性が備わっているからです。さまざまなな社会状況や自然現象、病気や苦悩に、私たちが意味づけをして「理解」し、「分かった」つもりになろうとするのも、そうした脳の傾向が下地になっています。目の前に、わけの分からないもの、不可思議なもの、嫌なものが放置されていると、脳は落ち着かず、及び腰になります。そうした困惑状況を回避しようとして、脳は当面している事象に、とりあえず意味づけをし、何とか「分かろう」とします。(中略)
 ネガティブ・ケイパビリティは、その裏返しの能力です。論理を離れた、どのようにも決められない、宙ぶらりんの状況を回避せず、耐え抜く能力です。(中略)
 なるほど私たちにとって、わけの分からないことや、手の下しようのない状況は、不快です。早々に回答を捻り出すか、幕をおろしたくなります。
 しかし私たちの人生や社会は、どうにも変えられない、とりつくすべもない事象に満ち満ちています。むしろそのほうが、分かりやすかったり処理しやすい事象より多いのではないでしょうか。だからこそ、ネガティブ・ケイパビリティが重要になってくるのです。(中略)
 読者がネガティブ・ケイパビリティを少しでも自覚し、苦難の人生での生きる力として活用してもらえれば、著者としては存外の喜びです。ネガティブ・ケイパビリティの概念を知っているのと知らないのでは、人生の生きやすさが天と地ほどにも違ってきます。なぜなら、世の中にはポディティブ・ケイパビリティに対する信仰ばかりがはびこっているからです。この本を読む前とあとでは、あなた自身が変わっているのを実感するはずです。

帚木蓬生著「ネガティブ・ケイパビリティ答えの出ない事態に耐える力」朝日新聞出版より

 ネガティブ・ケイパビリティの概念が生まれたのは、19世紀初頭、ロマン派を代表するイギリスの詩人ジョン・キーツによって提唱された概念である。しかし、この言葉は、弟たちにあてた書簡に記されたもので、公になることはなかった。20世紀に入ってイギリスで著名だった精神分析医のウィルフレッド・R・ビオンに発見され、その書籍「注意と解釈」で紹介される。世の中に出たのはキーツの死後、実に約170年後だった。日本でも、2017年に本書が刊行されるまでは、まったく知られていなかった。しかし、不確実性の高い現代で、この考え方の有用性に注目があつまり、多数の新聞、雑誌に取り上げられ、現代を生き抜く上での大切な考え方として、その認知が広まり始めている。

 本書は、
はじめに ネガティブ・ケイパビリティとの出会い
第一章 キーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」への旅
第二章 精神科医ビオンの再発見
第三章 分かりたがる脳
第四章 ネガティブ・ケイパビリティと医療
第五章 身の上相談とネガティブ・ケイパビリティ
第六章 希望する脳と伝統治療
第七章 創造行為とネガティブ・ケイパビリティ
第八章 シェイクスピアと紫式部
第九章 教育とネガティブ・ケイパビリティ
第十章 寛容とネガティブ・ケイパビリティ
おわりに 再び共感について
の構成で、
・著者とネガティブ・ケイパビリティの出会い
・ネガティブ・ケイパビリティの歴史
・人間の本質であるポディティブ・ケイパビリティ
・ネガティブ・ケイパビリティが、医療、芸術、教育に与える影響
・ネガティブ・ケイパビリティの視点から見た史実、人物
・ネガティブ・ケイパビリティと共感力
を述べている。

 本書籍レビューでは、我々が教育により刷り込まれてきたポジティブ・ケイパビリティの限界と、生きる上で、ネガティブ・ケイパビリティを持つことが重要であることを述べた、第九章 教育とネガティブ・ケイパビリティにフォーカスを当てて紹介する。

 幼稚園から大学に至るまでの教育に共通しているのは、問題の設定とそれに対する解答に尽きます。
 その教育が目指しているのは、本書の冒頭で述べたポディティブ・ケイパビリティの養成です。平たい言い方をすれば、問題解決のための教育です。しかし、問題解決に時間を費やしては、賞賛されません。なるべくなら電光石火の解決が賞賛されます。(中略)
 しかしここには、何かが決定的に抜け落ちています。世の中には、そう簡単には解決できない問題が満ち満ちているという事実が伝達されていないのです。前述したように、むしろ人が生きていくうえでは、解決できる問題よりも解決できない問題の方が、何倍も多いのです。(中略)
 教育者には問題解決能力があること以上に、性急に問題を解決しまわない能力、すなわち「ネガティブ・ケイパビリティ」があるかが重要になってきます。
 そして、私たちだけでなく子どもたちにも、問題解決能力(ポディティブ・ケイパビリティ)だけでなく、この「どうしても解決しないときにも、もちこたえていくことができる能力(ネガティブ・ケイパビリティ)」を培ってやる、こんな視点も需要かもしれません。
 解決すること、答えを早く出すこと、それだけが能力ではない。解決しなくても、訳が分からなくても、持ちこたえていく。消極的(ネガティブ)に見えても、実際には、この人生態度には大きなパワーが秘められています。
 どうにもならないように見える問題も、持ちこたえていくうちに、落ち着くところに落ち着き、解決していく。人間には底知れぬ「知恵」が備わっていますから、持ちこたえていれば、いつか、そんな日が来ます。

 「すぐには解決できなくても、なんとかもちこたえていける。それは、実は能力のひとつなんだよ」ということを、子供にも教えてやる必要があるのではないかと思います。

帚木蓬生著「ネガティブ・ケイパビリティ答えの出ない事態に耐える力」朝日新聞出版より

 以上が、本書の概要である。本書を通じた私の学びは、

 これまで、生きてきた中で、なかなか答えが出ず“自分には無理“と早急に判断して、諦めた出来事がいくつもあった。その理由の一つに、私にも、教育を通じたポジティブ・ケイパビリティの刷り込みがあったかもしれないと感じた。そんな中で、「ネガティブ・ケイパビリティ」(解決しなくても、訳が分からなくても、持ちこたえていく。どうにもならないように見える問題も、持ちこたえていくうちに、落ち着くところに落ち着き、解決していく。)という”答えが出ない問い”に対する姿勢の一つを学ぶことが出来た。

である。

 本書には、著者が読み解いた「ネガティブ・ケイパビリティ」を使って、課題解決を図った医療、芸術、教育、史実、人物の実例が、多数収められている。本書籍レビューを読み、「ネガティブ・ケイパビリティ」に興味を持ち、この考えのさらなる肚落ち、そして自分の身に着けたいと思った方には、一読をお勧めする。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?