見出し画像

わたしが結婚していたのは夫という名の安定企業:第二話

「芽久実ちゃん? 大丈夫?」

店員に頼んだのであろう氷水の入ったグラスを顔の前にゆっくりと差し出しながら裕美が掛けた声に、芽久実はけだるげに顔を上げた。寝ていたつもりはなかったが、半ば意識を飛ばしてしまっていたようだった。

「うん、飲みすぎちゃったみたい。あんまり強くないけどお酒は好きだからついつい飲んじゃうんだよね。あはははは」
「光士郎も寺島さんも、芽久実ちゃんにばっかり強いお酒飲ませるんだもん。ひどいよねぇ」

思い過ごしかもしれないが、口を尖らせながら発せられたその声色には、光士郎や伸行にというよりは芽久実への非難がにじんでいるように感じられた。芽久実は、自分に向けられた好意には鈍いが女性のそうした機微にはある程度聡いと自己評価している。伸行だけでなく、自分の恋人である光士郎までもが芽久実と話し込んでしまうものだから、裕美は面白くなくて当然だろう。

「ごめんね、わたしも調子に乗り過ぎちゃった。裕美ちゃんありがとうね。こんな優しい彼女がいて光士郎がうらやましいわ……」

こんな時でもヨイショするのか、我ながら八方美人が板についてる、と心の中で独り言ちながらなんとか氷水を流し込む。知覚過敏気味の歯肉に沁みて思わず眉根を寄せるが、裕美は意に介さなかったようだ。社交辞令としか思えないような褒め言葉に気付いているのかいないのか、裕美は「ほんと、光士郎って中学生みたいなところあるから」と独り言のように小さな声で言った。

万年中学生みたいなあいつにはあなたみたいな世話焼きの彼女がぴったりよ、言わないけど。さておき、どうしようか。頭は少し冴えてきたけどこれ以上飲んだら危険だし、でもまだ動けない。変なことになる前にさっさとタクシーでも……

「お! 芽久実起きたね! 次の店どうする?」

あ、気付かれた……もう帰りたいんだけど。無理か……。

「こらこら光士郎、芽久実ちゃん、結構飲んじゃってるし、もう眠そうだよ。そろそろお開き。俺、途中まで送ってくよ」
「え~!? 俺まだ飲み足りないですよ~。せんぱぁ~い」
「もう光士郎! 今日何のために集まったか忘れてるでしょ! 帰るよ! じゃ、寺島さん、芽久実ちゃんのことお願いします。これ荷物」

芽久実が口を挟む間もなくお開きと伸行の送りが決まり、会計まで済まされれていた。

「じゃ、また飲もうな、次はワイン美味いところ探しとくからさ! 先輩、あとはお願いします」
「お疲れさまでした」

JRの改札口を通る光士郎、裕美カップルを見送る。改札口を通るとすぐに裕美が光士郎の腕に絡みつき、裕美がくだを巻きながら光士郎に甘えているのが芽久実と伸行にも見て取れた。

「光士郎、いい彼女見つけたよね」
「わたしもそう思います。光士郎にはあれくらいしっかりしてて押しが強い彼女のほうがいいですよね。前の彼女は……あ、」
「芽久実ちゃん、さすがよく知ってるね」
「あはははは……ごめんなさい、最後のは忘れてください」

うっかり変なことを口走ってしまうところだった、もっとちゃんと水飲んでお酒抜くべきだったと後悔しつつ、当たり障りのない話題を探しながらメトロの改札口へ向かう。

「わたしが飲み過ぎたせいでごめんなさい、方向、こっちで大丈夫でした?」
「うん、こっちからでも帰れるし、芽久実ちゃんそのまま帰すの心配だから」

それっていつもと違う方向ということでは……などと返すのは無粋だと言葉を飲み込んでいると、「でも……」と伸行が付け加える。

「やっぱり芽久実ちゃんふらふらしてるから、どこかで休んでいこうか」

ほら、きた、飲み過ぎるとろくなことがない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?