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【小説】破線

 どこに応募したのか忘れましたが文学新人賞に応募し一次選考落ちになった小説です。わりと物語になっていて好きなのですが、テーマがはっきり出せていないのと描写が甘いので、全体的に淡い味わいになってしまっています。
───────────(以下本文)─────────────────

昨日は祖父の三回忌だった。盛大なものではないが、いがみ合っている親兄弟も、連絡をあまり取っていなかった親類もが集まり、和尚様とともにお経を読み、会食した。祖母は何度も、何度も、ありがとう、ありがとうと繰り返していた。食事の内容は去年の一周忌に食べたものと全く同じで、あの時の悲しみがぶり返すかと思ったが、そんなことはなかった。

 今日は昨日の空模様が嘘だったかのように雲一つない晴天で、小春日和と呼ぶのにふさわしく、幸運を運んでくるような穏やかな風が、祖父母の家の庭に咲いている白い花を揺らしている。野鳥観察のための自作の餌台には、餌になりそうなものはおかれておらず、カラス一匹やってこない。
「鳥、来ないね」
「お父さんが亡くなってからは、とんと果物を置いてないからねえ」
「習慣で来るかと思ったんだけどな」
 ソファに座って祖母は皮付きのりんごを、テレビの健康番組でやっていたと言いながら、慣れた手つきで、まっすぐ輪切りにしている。シワが刻まれた手は優しくそのりんごを僕に差し出してくれる。祖母は果物が好きで、昼ごはんと晩ごはんの間にりんごやみかん、バナナをよく食べているらしく、欝で仕事を辞めてから暇な僕が土曜日にやってくるといつも一緒に食べている。
 祖母は一人になってから、健康番組と相撲の話をよくするようになった。しかし、僕は思い出そうとしても、1人になる前の祖母が話していたことが何1つでてこなくて、いつも祖父とばかり話していたせいか、祖母のことをあまり知らずにこの日まで来てしまった。祖父の話していたゼロ戦の話、伊勢湾台風の話、ギターの話、祖父がやってきた工場(こうば)の話、物理の問答、それらは思い出せるのに祖父という人物を語るには足りず、もはや語ることでも祖父が表れないのが悔しい。この家に来て埋め合わせをしようとするけれども、それでも全く足らず、日に日にこの家からも祖父の痕跡は消えていってしまうのが寂しい。
「前はムクドリなんかが来てたんだけどねえ」
「なんか寂しい」
「でも、糞の掃除が大変でねえ。もういいっかて」
 天板が石の座卓には輪切りにされたりんごが並ぶ皿と素焼きの急須、温かい緑茶の入った湯呑みが2つ、あとは雑多な新聞や冊子類しかない。祖父の好きなホームセンターで買ってきたという回転するリモコン入れはどこに行ったのだろうか。リモコンもむき出しでソファに置かれている。あれには僕が贈った万年筆がいつもささっていたはずだ。周りを見渡すと、それは窓辺の棚の上に移動させられている。手にとって見ると、もう使う人のいなくなった万年筆はインクが固まって、ペン先が開かなくなっている。
「それ持っていく?」
 ペン先を見つめていたけれども、僕は万年筆を使ったこともないし、この万年筆はインクが特殊で、僕の母校のセレクトショップでしか替えは売っておらず、今から使えるようにするのも難しい。
「どうしようかな」
 僕が万年筆を分解してみると、インクが空になっていた。このインクは2本目で、よく使っていてくれたことが嬉しく、だから、こいつにはこの家のリモコン入れにいて欲しいと思うが、ペン先の寿命までは使ってやりたいとも僕は思ってしまう。
 輪切りにしたりんごはシャキシャキと歯ごたえがあり、甘い蜜が溢れ出て、ほのかにだが酸味がして、爽やかに匂い残りがない甘い香りが鼻の奥にする。皮がついているけれども、この切り方ならあまり気にならないと祖母と言い合ったら、体にいいところはだいたい皮のとこ、と健康番組で仕入れただろう話をしてくれる。祖母は歯が弱って普通の切り方じゃ皮のところを噛み切りたくても切れないらしい。僕も歯には自信がなく、すきっ歯だし、咬み合わせも良くなく、噛みちぎりたくても、上下の歯が噛み合わないから、全く挟めず苦労する。母もそうだから、もしかしたら祖母もそうなのかもしれない。
「おばあちゃん、テレビをつけていい?」
 祖母とおばあちゃん。心の中の言葉と外に出る言葉をはっきりと区別しないと、僕は何か黒いものに押しつぶされてしまいそうになる。心の中でおじいちゃんと呼ぶと、現実の世界でおじいちゃんと呼ぶ人がいないことにさびしくなってしまう。
「ええよ。何がやっていたかねえ」
 祖母は老眼鏡を付けて、新聞を取り上げて番組欄を見るが、僕はテレビの電源をつけて、テレビの機能の番組表の方を見て、見る番組を決める。
「なにかいいのあった?」
「うーん、この時間はないねえ」
「じゃ、これでいいっか」
 バラエティ番組の再放送にチャンネルを変えて、とりあえず見る。祖母は深くソファに腰掛けなおして、番組欄をまだしげしげと眺めている。僕もテレビをつけてみたはいいもの、とくに見たい内容でなくて、結局、つけたまま家から持ってきた推理小説を読み始める。僕は本を読みながらラジオも聞く質なので、バラエティ番組なら読みながら見ることもできる。これがドラマになったりすると、話が混線してわけがわからなくなって、どちらも進まなくなるので、うざったくてテレビを消してしまう。
「今日は横綱、勝つかねえ」
 番組欄とにらめっこしている祖母がそうつぶやく。どうやら横綱は連敗しているらしい。
「昔は俺も相撲部屋にスカウトされたりしたんだけどな」
「やっぱり?あんたの体格じゃそりゃ目をつけられるわね」
「まね。だけど、もうこの年じゃやれないね」
「何言ってんのよ。まだ二十代でしょ」
 そうは言っても、もう三十路のほうが近い年齢で、寝続ければ腰が痛くなるし、散歩をするだけで足はむくむ。そうでなくても、欝の影響か、外に出歩くと吐き気がする。こんな身体じゃスポーツする気もなくすってもの、僕は家の中で本を読んでいるのが性に合っている。
「昔とは違うってはっきり分かるんだ。これが老いるってことなのかってね」
「あんたはまだ私の半分も生きてないでしょう?まだこれからよ」
 祖母はしかめっ面を作り、そう言ってから笑いかける。ズルいなぁと思う。こんな風に優しくされたら、僕もまだやれるのかなって思い直す。
「あんたが老いって言ったのはただの衰え。老いってのはそんなものじゃないのよ。でも、悪いことばっかりじゃないわ」
 いつもの祖母だけど、その顔に一瞬の悲しみと、一瞬の喜びが浮かんだ。いつも周りから口を酸っぱくして言われる「年を取った時に」僕にもその意味がようやくわかってきたと思っても、それは祖母の老いとは違うものだろうか?僕の3倍以上生きている祖母は何を感じているのだろう。
 新聞から手を離した祖母はこんなテレビ番組には興味が無いようで、新聞屋が持ってくる冊子をパラパラと読み始めたが、すぐにうつらうつらとし始める。暖房のガスヒーターが部屋を暖め、足元も電気カーペットで温かいので僕も眠たくなってくる。ブランケットでもそこにあれば、カーペットに寝転がって昼寝でもしたい。窓から差し込んでくる日差しは長く、祖母の周りに祝福のようにきらめいている。
 祖母が気がついたのは、僕が推理小説を26ページほど読んで、バラエティ番組も終わりがけの頃だ。どうしたのだろうとそちらを見ると、冊子と新聞を座卓の上に片付けている。りんごを切った包丁や皿、湯呑みを片付けようとしていたので、皿と湯呑1つを僕も持ってダイニングにある流し台に運んだ。
「テレビ見ながら、本を読んでいたの?」
「一応」
「器用なこと。私はそういうのできないのよ」
 祖母はソファに座りなおすと、はぁーあ、と息を漏らし、そのまま横に寝そべる。僕は座椅子に座って、推理小説の続きを見ようとして、テレビ番組が旅番組に変わっていることに気がつき、旅といえば、と先週の日曜日のことを思い出す。
「そういや、先週、佐久島に行ってきたんだ」
「佐久島?どこだっけ?」
「一色のほうから行ける島だよ。いろいろアートの企画をやってるんだ」
 僕はスマホを取り出して、撮ってきた写真を見せる。昼寝をするための遊具のようなオブジェや、秘密基地のような中に入れる作品、写真は数枚しかない。
「へぇ、知らなかったわ」
「俺も雑誌で知ったんだ。紫色の海岸とかも有るんだよ。あ、だけど写真だと灰色に見えちゃうな。行ってみると暗い紫色に見えるんだ」
「あんたは色んな所に行くね」
 そうは言うが、僕は一ヶ月に一回しか旅行に行かない。しかもどれも近場で済ましている。だけど、祖母はずっとこの家と周辺にしか行かないので色んな所に行っているようにみえるのだろう。
「いやー、でも計画してないからね。今回は水筒を持っていっただけ賢いけど、結局、島の裏側にある人っ子一人いないような道で、喉をカラカラにしてさまよっていたからね」
「まーええかげんにしないとかんよ」
 心配をかけてしまうけれども、それが嬉しくてつい笑ってしまう。祖母もそれに気づいたのか笑っている。
「あ、そうだ、あんた色んな所に行くならカメラはいらんかね?お父さんのいいやつがゴロゴロあるんだわ」
「カメラかあ。それってデジカメ?」
「たぶんフィルムじゃないかね。こんなんじゃもう使えないかねえ」
 祖母はヨイショと立ち上がり、リビングの東の壁にある飾り棚の上のあたりから、5,6台のカメラを取り出してみせた。こんなにあるとは思いもよらなかった。祖父はギターの話は良くするけど、写真の話はあまりしないので、1台を使い倒してるものだと思っていた。
「ちょっと見せてもらうね」
 そう言って革のケースから取り出すと、ずいぶん軽いファインダーだけのカメラが出てくる。もうずっと見ていない、そう言っても僕はフィルム式はインスタントカメラしか触ったことはないけれども、明らかにフィルム式のカメラで、しかもレンズを交換できるタイプでもない。
 カメラはどれもそんな感じで、大きさの大小はあっても、フィルム式なのは変わらず、僕が今使うにはどうにも難しそうだ。しかし、不思議な事に、僕は祖父にデジカメの使い方を教えたことがあったはずで、1台はデジカメがないとおかしいのだが、まったくそいつは出てこない。
「残念だけど、僕には扱いきれないね。それにスマホもあるしなあ」
「それじゃ、捨てるしかないね」
「捨てちゃうのか。それはそれでもったいない気もする」
「だけど、使わないのばっかあってもねえ」
「古道具屋に持っていけば、それなりで売れるだろうし、やっぱり捨てるのはもったいないよ」
「だけど、持ってくのもこの歳じゃねえ」
 元気に見えるけど80歳を超えてるものな、僕が持っていってやれれば良いが、このあたりで買い取ってくれそうな店はとても歩いていける距離になく、免許を持っていない僕には難しかった。捨ててしまえばこのカメラは土に埋まって、腐っていってしまうだろう。それよりも古道具屋で次の主人を見つけてもらい生き続けて欲しい、欲を言えば、このままここにあり続けて欲しい。わがままだとわかってはいるけれども、祖父のものが消えていくことが僕を不安にさせる。
 息を吐いて、カメラをケースにしまい、全てを元あった飾り棚の上に戻した。飾り棚の上にはCDをしまうガラス戸の棚があって、J-Rockばかり聞く僕には全くわからない、有名なのだろうギタリストたちのCDがみっちりと入れられていた。祖父はよく僕にセゴビアのギターの音色の不思議を話してくれたけど、僕はセゴビアのギターを聞くことはなかった。
 CD棚の中にはセゴビアと書かれたものが1枚だけあった。もっと持ってるはずと祖母は言ったが、どう探しても60枚近くの中にはこれしかなかったので、開いてみると、中には全く違うタイトルのCDが入っており、あらおかしいわねと祖母はCDを入れ替えような人じゃないと言うが、実際に入れ替わっており、こいつの元のCDケースは見当たらない。
「ついでだから、そこの突っ張り棒見てくれない?お父さんがやったんだけど、なんかおかしいと思うのよ」
 CD棚の上にワインレッドの転倒防止用の突っ張り棒が2本ある。傍目には何もおかしく見えないが、とりあえず外してみよう左のに手をかけると、簡単に崩れてしまい、まったく突っ張り棒としての意味をなしてなかった。よくよく見ると、上の足が棒の部分に入っておらず、噛ましてあるだけ、これじゃあ弱いのも当たり前だ。
 なぜだろう。こういう時は観察が必要だ。もう、これの組み立て方はわからない。どうやっても上の足は棒の穴に入らない。下は入るのは、棒が二重になっていて、下のほうの穴が大きいからだ。
 もしかして、と思い右の突っ張り棒を外してみると、そちらはちゃんと上下の足もしっかり入っており、突っ張り棒らしい働きをしている。ばらしてみると、上下の足の形が左のものと全く異なっている。これはきっと、組み合わせ方を間違えたんだ。本来なら、左の足は下に、右の足は上に使わなければならないのに、間違えて上同士と下同士で突っ張り棒を組み立てたもんだからこんなおかしくなっている。
 組み合わせをなおして、CD棚の上に噛ましてやると、全く崩れることもなく、しっかりと嵌った。祖父にも案外そそっかしいところがあったんだな。
「ほら、これでもう大丈夫」
「あらあら、まったくお父さんはそそっかしいんだから」
 僕と同じことを祖母も言ってら、まったく困ったもんだ。これで、この突っ張り棒は祖父がやったものでなく、僕がやったものになってしまう。なんでもないのに、上書き保存していくようで、こんな些細な事もやり直せなくなるのが気になる。
 祖母は、飾り棚の前、このリビングの窓から一番遠い隅に置かれた、マッサージチェアに座り、マッサージをさせ始めた。あれは高いものらしく、前に母が使ったら疲れが取れたというので、使ってみたいのだけれど、僕は体重が重すぎるので、壊れるといけないと言われ使わせてもらったことがない。
 あれも祖母が亡くなったら捨てられるのだろうか。僕達に捨てられるのだろうか。少なくとも、ここに置かれ続けることはないはずだ。この家もいつまで存在し続けるのかわからない。使わなくなればものは痛む、この家もすでに二階が使われなくなっている。
「マッサージチェアってどんな感じ?」
「気持ちいいわあ。これのおかげで腰もだいぶ良くなったねえ」
 座椅子に座って、推理小説を読み始めると、いつもより安心して読むことが出来て、すいすいと文字を拾い上げる。長らくそこに人の気配があるのが当たり前だったから、かつてのように読めているのだと気づくのに時間はいらなかった。その隅は祖父がギターを奏でていた場所で、僕が小説を読む時はいつも、そこでギターを暗譜で爪弾き、練習をしていた。その頃はもちろんマッサージチェアなんてものはなくて、椅子と足台、一応の譜面台があった。あれらはどこへ行ったのか、マッサージチェアが来てから見かけなくなった。
 推理小説は僕が想像していたよりも早く読み切ってしまいそうで、読む本がなくなる恐怖が少しずつ焦りになり湧き出てきた。帰りに本屋によっていこうか。しかし、近くに本屋はなくて、バスで終点の僕の家の近くにまで行かないと本を買えるような機会はなく、どうにも不安になる。
 推理小説を読む手を止め、一旦しおりをはさみ、座卓の上の新聞の更に上に置いた。トイレに行くために廊下に出ると、暖房の一切ない板間の冷たい空気が一気に僕の脇を吹き抜ける。裸足で廊下に踏み出すと、ひんやりとした温度と、若干くっつくような感触がする。北にある玄関には、大きな額縁に入った書や、ポストカードサイズの絵がいろいろと飾られており、多少暗くても生きていける観葉植物が置かれている。最近になって、ここに背もたれのない小さな椅子が増えた。祖母の友人が来た時に座れて便利だと、前に話してくれた。
 トイレは当然ながら、座面が下がっている。屈んで座面を上げてから小便をする。なぜかこうすることに罪悪感が芽生える。ホームセンターによく売ってる、透き通った青色の石のようなものが、トイレの手洗い場にしかれている。ホームセンターでこんなものを買うのは誰だろう。祖母はホームセンターにあまり行かないのだから、決まっているか。
 トイレを出て、リビングに戻る時、玄関の壁にある誰かの大きな書を真正面に見ることになる。おそらく漢文なので、なんとか返り点などを打てば読めそうなものだけれども、いつ見ても何が書いてあるのかわからない。良いものなのか、そうでもないのか、それもさっぱりわからない。どこからこれを手に入れたのかも、なぜここにあるのかも僕は知らないが、こいつはこの家が誰のものかわかりやすく示している。
 リビングの座椅子に座って、また推理小説を読み進める。飾り棚の横、マッサージチェアの正面には祖父の本棚があり、ほとんどはエッセイ、残りは啓蒙書というラインナップで、僕は啓蒙書ならばともかく、エッセイの読み方を知らないし、そうでなくてもそこから本を借りていくことに抵抗を感じる。
 推理小説ももう終盤。残された謎はあと1つだけ。きっと名給仕のヘンリーが鮮やかに謎を解くだろう。本が終われば、登場人物は眠りにつき、舞台は凍りつく。どれだけ未来を想像しても、それは心の中でしか起こらず、終わりからの復活は世界の外でしか実現しない。
「さて、そろそろ準備しないと」
 マッサージチェアから祖母は斜め上を見て何かを考えるように立ち上がる。時計を見るともう15時30分程、祖母の体内時計がしっかりしていることに驚かされる。
「晩御飯の刺し身、何が食べたい?」
「イカがいいなあ」
「よし、そいじゃ買い物行ってくるで待っとってよ」
 祖母はダイニングにあるコートかけから上着を取って羽織り、いつも持っていくというショッピングバックを持って、止める間もなく出ていった。追いかけて一緒に行くよと言えばよかったのだけど、なぜかいつもそれが出来ない。
 推理小説を読み終えて、しおりを一番最初のページに挟み込み、座卓の上に放り投げるように置く。ふうと声にならない息を吐いて、旅番組から工場見学に替わったテレビを見ていたら、なにかむず痒いものを感じた。
 リビングから西の間、部屋でなくて間になるのがこの家の歴史を語っている。なぜかそこは雨戸が閉めっぱなしで、いつも豆電球がついている。そこには仏壇があって祖父の遺影や位牌、お供え物のビールや果物、愛用のギターが置いてある。仏壇の中は浄土真宗らしく金色が濡れたように輝いている。
 僕は仏壇の前に正座して座って、お輪を2回鳴らし、波阿彌陀佛と呟いた。そして、求職活動がうまくいっていないこと、欝は良くなったり悪くなったりを繰り返していること、どうにも上手く行かないのが不安であることをつぶやいた。もし、祖父がいても、とても言えないことも僕はつぶやいてしまう。全てを包み隠さず言いたいと思うのは、祖父に言えなかったことが多すぎたからだろう。僕は見栄がなければ、ここで涙を流してすがりたい、なんで死んでしまったのかと問い詰めたい。
 愛用していたギターを、弾いたこともないのに、弦を弾(はじ)いて音を鳴らすと、とても祖父が鳴らしていた柔らかいものとは全く違う、硬い音がなった。このギターはどうやって朽ちていくのだろう。このまま、弦が固くなって、板が振るえなくなって、音も出せなくなって、腐っていくのだろうか。ここに置いて腐っていくのを見るのは辛いけど、これを手放すもまた身を裂かれる思いで、もうどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
 この間のリビング側には棚が1つあり、そこにはDVDのコレクションが並べられており、モノクロ映画の名作が何本も収められている。どれも僕は見たことがない。そこのリビングには大きなテレビとDVDプレイヤーが有るというのに、ここに来る人々はそれよりもテレビのバラエティが好きだ。そういう僕もバラエティ番組を見ているのだから誰も救えない。
 しっとりとした湿度と、それに見合った冷気がここには充満している。電気を消そうとして、遺影が目に入った。祖父は困ったような、はにかんだような顔をしていて、僕の心に寂しさを思い浮かばさせる。あれはただの写真だと思い込もうとして、余計にそれが祖父の実際の顔に見えてきてしまって辛い。それでも、と電気を消し、ここを暗闇にして、何もかも墨で塗りたくったような暗闇にして、見えなくする。
 リビングに戻って、本棚を眺めてみるが、本は増えてはいない。政治系の啓蒙書に興味が無いと言えば嘘になるが、政治という言葉が身になじまず、手に取ってみようという気が起きない。祖父から借りっぱなしになっている氷川談話も実はそれほど読めていない。必ず返してくれと言っていたのに、返すことはできなくなって、あれは僕がまだ持っている。
 この本棚は前面に移動式のラックがあって、二重に本がしまえるようになっている。だけれども、前はそのレールの上にもギター雑誌やらが乗っていて動かせやしなかった。実際に触ってみると、重いけれどもラックは動いた。いつのまにやら雑誌がなくなっていて、裏の本が見えるようになっている。そこには、革張りの本やバーコードのついていない本がたくさんあって、中を見てみると革張りのやつはシャーロック・ホームズだった。
 旧仮名遣いのシャーロック・ホームズは読みづらいけど十分に読める。借りていこうか、どうしようか、また返せなくなってしまうのではないか、しかし、読んでみたい。元あった場所が分かるようにして、僕は座椅子に座ってそれを少しだけ拝借して読んで見る。紙からは祖父のタバコの匂いがする。懐かしい匂い、そう懐かしい。もう、懐かしいになってしまったんだ。
 シャーロック・ホームズは少しだけ読んで、本棚に戻した。これ以上読んでいれば目から何かが流れていってしまいそうだ。
 玄関をガラガラと開ける音が聞こえ、ただいまと祖母の優しい声が響き、ダン、ダンとゆっくり踏みしめるように廊下を歩く音が伝わる。ガチャリと廊下とダイニングを仕切る扉が開かれて、一瞬冷たい空気がここまで吹き入る。
「おお寒い」
 祖母はダイニングから顔をひょっこり出して、リビングの奥にいる僕を見つける。
「あら、そこの本、興味があるんだったら持っていってもいいよ」
「ここにあった雑誌ってどうしたの?」
「あれは誰も読まないでしょ?だから、古紙回収に出しちゃった。でも、興味ないでしょ?」
 そう、と僕は呟いた。ギターのそれも古い雑誌には興味はなく、あるのは祖父の読んでいたものを読んでみたいという野次馬のような気持ちだけ。それなのにこんなにも残念に思う自分に驚いてしまう。それは、雑誌が捨てられたことを残念に思っているのか、祖母が雑誌を捨てたことを残念に思っているのか、分からない。
 リビングのテレビを消して、ダイニングのいつも祖父が座っていた上座の席に僕は座った。祖母の席は決まっていて、いつもダイニングのテレビの真正面に座る。僕が座るこの席は祖母に一番話しかけやすくて、テレビの見やすい場所だ。
「おばあちゃん、本ってあそこにあるだけ?」
「んにゃ。2階にまだごろごろあるのよ。この前、倉庫を掃除したらカビた文学全集なんかも出てきて困ったの」
「おじいちゃんが読んだのかな?」
「いや、ああいうのを持ってるのが流行ったころがあってね。それで買ったんじゃないかしら」
 ふーんなんて興味のないふりをしてテレビの電源を入れた。祖母が相撲にしてと言うので、チャンネルを1から順繰りに押して相撲中継に替えた。相撲は一瞬すぎてよくわからないと思っていたが、大学に入りスポーツをやってみて、改めてその動きを見ていると、実に多くの技が使われていると驚かされる。
「相撲もわかってくると面白いね」
「見ていくとこの子はええ相撲をするとか、この子はあんまりっていうのが出てくるよ」
「やっぱりちゃんとぶつかる相撲は面白いね。そっからの投げへの攻防が熱い」
「そうそう」
 わかったようなことを言ってるけれども、相撲のルールもさっぱりわかっておらず、祖母もなんで立ち会い前に両手をついたり戻したり、いつ立ち会いが始まるのかもさっぱりわからなかった。
「そうだ、渡りにあるお茶取ってきてくれない?」
 ダイニングの北からは、元々は叔父の一家が住んでいた家とこの家を繋ぐ渡り廊下が伸びている。もう、叔父たちは引っ越していってしまい、その家は倉庫のように使われている。渡り廊下は壁一枚隔てただけのこちらの廊下よりもずっと寒く、足の裏をフローリングにつけるのも躊躇いたくなるほどだった。
 渡り廊下には写真が沢山飾られていた。祖父が撮ったものや、記念日に写真屋で撮ってもらったもの、逆に僕たちが撮ったものもある。僕はその写真をじっくりと見ていた。終わった幸せな日々がそこにはあった。
 2リットルペットボトルのお茶はまとめ買いした時のダンボールに入ったまま横にして置かれていた。1本を引き出して、残りは落ちてこないように念入りに押し込んだ。子供の頃は、このお茶を持って筋トレなんて言っていたことを思い出す。。
「お茶は冷蔵庫に入れとけばいい?」
 イエスを聞く前に、僕は冷蔵庫を開けて扉のラックを見るが、そこはマヨネーズやケチャップ、瓶のジュース類で埋まっていて、これじゃお茶のペットボトルを入れられない。
「冷蔵庫の低いところに入れておいてね」
 いつの間にかエプロンを付けた祖母はこちらを見ずにキャベツを切っている。
「扉のところ満杯なんだけど」
「そっちじゃなくて、棚のところ空いてない?」
 冷蔵庫本体の棚の方はけっこう空いていて、大きなペットボトル1本がまるまる横にして入る。冷蔵庫の中身が少なくなっているのが数えなくてもわかり、食べる人がいなくなったことをここも表している。
 オール電化のこの家は、IHで調理をする。祖母は未だに上手く扱えないらしく、何度もタッチパネルをカツカツと爪で押している。それじゃつかないよと僕が指の腹でゆっくり押すんだと教えたら、あら、なんて恥ずかしそうに笑って僕の背を叩く。
 僕はまたテーブルの上座に座り、テレビでやっている相撲を見る。バターの香りがして、キャベツの焼ける匂いがしてくる。きっとここに牛肉を入れ、ウスターソースと一緒に食卓に出るのだろう。
 はい、とキャベツと牛肉の炒めに、味が薄かったらかけてとウスターソースを出してくれる。家で使ってる茶碗よりも小さいやつに、いつも僕が盛るよりも軽く盛られたご飯。さっきスーパーで買ってきたイカの刺身。作り置きのトマトのスープは様々な野菜が入っていて、色も真っ赤ではなくコンソメスープのような褐色だ。
「いただきます」
 僕が食べ始めると、祖母はお盆の上に晩御飯を全て少しだけ盛った皿を並べて、仏壇の祖父にお供えしに行く。奥の間からお輪の音が2回聞こえ、その間テレビがついているのに静けさがあり、本当に祖父が食べていったような気がする。だけど、祖父はそんな静かな食事は好きじゃなくて、よく食べ、よく喋る食事を僕が遊びに行くとしていた。
 祖母はお供えした食事を持って返ってきて、僕のお皿に追加してから、まだ食べたいでしょうなんて言う。実際に僕はまだまだ腹5分にも満たなくて、食べきったご飯のおかわりをお願いする。キャベツと牛肉の炒め物はウスターソースをかけなくてもちょうどいい味付けで、キャベツも炒め過ぎになっておらず、スープが出ないのによく火が通った一番美味しい状態になっている。イカの刺身は買ってきたものだけれど、甘くて美味しい。なかなか刺し身を買う機会がないと祖母は嘆いており、ひさしぶりに食べると喜んでいる。
「お父さんがいた頃は、毎日刺し身を出していたのに、一人になるとめっきり買わなくなっちゃってね」
「毎週僕が来るから土曜は食べられるよ」
 ふふと笑い、匙でトマトのスープを掬って飲んでいる。僕もスープに手を付けてみると意外なことに冷たいスープで、それなのにコクにあふれて甘かった。砂糖のような甘さではないから、野菜から出た甘みだろう。コンソメのちょっとした塩気がそれによくあっている。
「このスープ美味しい」
「そうでしょう。教えてもらったの。だけど、あんたの嫌いなパプリカは使わなかったのよ。あれが入っていれば色も完璧ね」
 パプリカ、ピーマン、それっぽいものは全部ダメだ。臭いも味も大嫌いで、口にするのはもちろん、見るのも嫌だ。アレルギーというわけでないので、祖父に食べなかんとよく言われたっけな。無理やりひとくち食べて、どうしてもその臭いが駄目で飲み込めず、お茶で無理やり流し込んだ事もあった。
 今の食卓はとても静かだ。あの騒がしかった食卓はもう終わった。これからの食卓はどうなっていくのだろう。
「ごちそうさま」
「おそまつさま。どうだ、腹一杯になったか?」
「正直言うとちょっと」
「そんじゃ、この昆布とご飯で食べるか?」
「うーん。やめておくよ。腹八分って言うし」
 お皿を重ねて、流し台の中にある桶に使ったお皿たちを運んで入れる。この家は全自動食器洗浄機があるから、後始末の心配はしなくていい。
 祖母は僕より少ない量を食べているのに、僕より長く食べている。僕が早食いなのか、祖母が遅いのか、どっちかはわからない。ゆっくりとつまむ箸先が優雅さを帯びている。僕のは雑でガサツな箸使いで、細かいものをつまむのが苦手だ。特にそばせいろのザルに残ったそばを取るのに苦労する。
「ごちそうさま」
 祖母も皿を片付けて、電気ケトルと急須で食後のお茶を淹れ始める。テレビの相撲中継は三役揃い踏みを映している。お茶を正しい淹れ方で湯呑みに注ぎ、1つを僕にくれた。
「それで、あんた体調の方はどうなの?」
「体のほうは大丈夫。精神は良くなったり悪くなったり、一進一退だね」
「そうかあ。なんとかしてやりたいけど何にもできないからねえ」
 本当に残念そうに祖母は毎週そうやって言う。僕もいい報告が出来たらと思うが、どうにも辛い日があり、味も感じなくなる程の落ち込みを見せるときもある。それに、僕はもう隠し事はしたくないので、このことは正直に行ってしまおうと思っている。嘘で明るく見せても何もいいことなんてない。
 淹れてくれたお茶は熱くて、猫舌の僕は飲むことがまだできなかった。何度も飲もうとして少しだけ口に含み、やっぱり熱いと息を吹いてお茶を冷まそうとする。
「私も最近、膝の調子が悪くてね。うっかりすると転びそうになるのよ」
「病院に行ったらどう?早いほうが治りもいいって言うよ」
「もう行ってるけど、まあ、年だしね。治らなくてもしかたないわ」
「でも、痛いのは嫌でしょ」
「そうね。でも、仕方ないって思えるのよ」
 僕は絶対にそうは思えない。なんでこんなことになったんだと、周りを恨む事もある。辛い日に、もう治らなかったらと思い、何度死にたいと考えたことか。僕は弱くて、弱いがゆえに、僕が嫌いだ。
「おばあちゃんは強いんだな」
「違うんじゃないかな。本当にここまで老いるとね、色んなことに踏ん切りがつくの。もし、あんたの年で苦しんでいたら、私だって辛くなるわ」
 僕にはまだ理解できない。僕は老いていないから、言葉で聞いても、まったく感覚が違っていて、知らない単語が、しかもカタカナ語の名詞が文章に出てきたように感じる。だけど、これが老いなのだろう。
 しばらく、無言で相撲中継を見ていたが、どうにもいたたまれなくなって、僕はスマホを取り出して、Twitterのタイムラインを見始める。旅道楽な友人は今日も御朱印をもらうために、どこにあるのか全く知らない神社やお寺に行って、その写真をアップロードしている。僕もまたどこかに行ってきたいな。
 今まで行ってきたところを思い出すと、佐久島や日間賀島のような離島か、犬山や岩村のような城下町が楽しかった。近場で安く済ませるなら東山動植物園なんかもいい。だけど、気分は近くじゃなくて遠くが良く、岐阜の恵那くらいなら適度に遠くて行き慣れてもいるが、今回はもっと遠くに行きたかった。
「長野まで行ってみようかな」
 松本くらいなら鈍行を乗り継いで行けるだろう。名古屋からどれくらいでいくらか調べてみると、片道4時間で3500円くらい、中学生にして京都まで鈍行で行くような僕には屁でもない時間だ。
「長野行くんかね?」
「まだわかんない。松本くらいなら鈍行で行けそうだし候補には入るかな」
「松本はええところだけど、遠いよ?」
「片道4時間かかるらしいね。でも始発で行けば十分日帰り圏内だよ」
「はあー。根気があること」
 お茶を少し口に含んで、ようやく飲める熱さになったのを確かめて、さっきより多めに口に含む。祖母はすでに二杯目の準備をしていたけれど、僕の話しを聞く時はこっちを向いて話を聞いてくれる。
「おばあちゃんは松本出身なんだっけ?」
「違うわよ。七二会村ってところ。今なら長野市かな」
「そうだっけ?松本って聞いた覚えがあったんだけどな」
「それは旧姓のほうね。七二会村の松本家と言えば有名だったのよ。富山から薬売りの人が来たり、講の人が来るとね、必ず家に泊めてあげていたの。それだけじゃなくて、浪曲師とか旅芸人の方も来てね、家で村の皆と楽しんだものだったわ」
「そうだったんだ。全然知らなかった」
 グーグルで「なにあい」と調べたら、七二会のWikipediaのページが出た。ページの中にはほとんど情報はなかったけれども、七二会村の記事があることを祖母に教えると、あれまぁと驚いて、本当かどうか僕のスマホを見て確かめた。
「じゃあ、今度は七二会村に行ってみようか」
「なんにもないわよ。私が生まれた家だってもうないんだから」
 もちろん本気じゃない。そんなことは祖母だってわかってるから、笑って言う。松本だって名古屋から4時間もかかるのに、北にある長野市なんてどれだけかかるかわからない。例え行ったとしても七二会までどうやって行くかも問題だ。どちらにせよ、行く気なんてないんだから調べるのも無駄ってもの。だけど、行ったらどんなことを感じるのだろう。
「私が生まれた家はね、兄がずっと住んでいてね、その兄も七二会で支所長だとかお偉いさんをやっていたんだけどね、そこの息子が上京して兄ももう年だからって、兄夫婦を呼んだのよ。お墓なんかもそっちに移しちゃってね、家もまだまだ使えた丈夫なやつだったんだけど、出ていって空き家になったら傷んじゃうでしょ?だから、処分しようってことになったんだけど、そんな時に買い手が見つかってね、どこかに移築して使ってるそうよ」
「でも、生まれた家がそこにないって寂しくない?僕も引っ越したから、生まれ育ったところとは違うけど、やっぱりあのマンションが生まれた町にあるってだけで安心するんだ」
「そう?私はそこに住んでたってだけで十分だわ。だって、そうだったんだから今も心の中にあるもの」
 だった。祖母は笑っている。僕はどんな表情をしてるのだろう。
「そうかあ。おばあちゃんが名古屋に来る前の話ってあんまり聞いたことなかったな」
「面白いものでもないわよ。年寄りの昔話なんて」
「そんなことないよ。すごく面白い」
 そう?なんてふふと笑顔で祖母は漏らす。僕もまた笑顔で少し目をつぶる。頭の中では賑やかな松本家が想像される。会ったこともない祖母の兄弟、父母、祖父母が影となって、見たこともない祖母の生家で生活を始める。生家は黒っぽい木造で土間があり、野菜を洗うための水路が流れている。
 テレビの相撲中継はいよいよ横綱の出番となり、祖母の推している横綱の取組が始まる。始まるかと思うと力水をつけ、はっけよいと行司が声をかけ、横綱が両手をつき、相手の大関は片手をつけ、緊張が走り、場内が一瞬無音になると、大関が両手をつけて、ぶつかり合う。まわしを取りあい、四つに組み、互いに技を出そうとして潰される、土俵際で横綱がぐんと力を入れて寄り切って、大関を押し出す。解説は今場所初の白星と言っている。
「やーえがった。ええ白星だね」
「よかったね。さて、もう帰らなきゃ」
「もうこんな時間かね」
 出しっぱなしにしていた推理小説をカバンにしまい、上着にペラペラのパーカーを羽織る。これで忘れ物はないかなとリビングを見渡すが何もない。
「おばあちゃん。本棚のこの本借りていってもいい?」
「ええよ。好きにし。ほら、ちくわとかいらんか?」
 祖父の本棚から革張りのシャーロック・ホームズを取り出して、一番最初のページにしおりを挟み込んだ。祖母は帰る時になにかと僕にお土産を持たせてくれる。ちくわは前に美味しいといったから、よく用意しておいてくれる。
「それじゃ、そっちも貰っていこうかな」
「えらい薄着じゃない。そんなんじゃ寒いでしょ。そうだ、ちょっと待っとき」
 祖母は仏壇のある間の北にある、寝室から灰色の暖かそうなマフラーを持ってきて、僕の首に巻いた。
「ほら、これで温かい。お父さんのだけど、全然使わなかったからほぼ新品よ」
 確かに首に巻くだけで温かい。マフラーからは柔軟剤の香りしかしない。
「ありがとう。これも貰っちゃっていいのかな」
「気にしちゃいかん。だけども、貰ったからにはちゃんと使わないかんよ。首を冷やすのは特に体に悪いからね」
 祖母は寒い廊下も、玄関前までも見送りに来てくれる。僕は冬だというのにクロックスでやってきていたので、祖母はまー裸足で来てと、と驚いている。
「それじゃあね。玄関、鍵かけといてね」
「あいあい、大事にやってください」
 そうやって、僕はバス停へと歩き出した。僕の足なら余裕でバスには間に合うだろう。この祖母の家の周りの町並みは、僕が小学生だった頃から全く変わってないように見える。変わったのは祖母の家の南に背の高いマンションが建ったくらいか。あの家にとっては大きな変化だが、この町にとっちゃ小さな変化でしかない。ガラスの工務店や印刷屋も変わらずそこにある。
 バス停にはすぐに着いたが、そのせいでバス到着までだいぶ時間が余ってしまった。カバンから祖父のものだったシャーロック・ホームズを取り出し読み始めると、寂しさと少しの罪悪感が湧いて出たが、幸福感も浮かんだ。



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