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思いがけず涙が溢れて。

子どもへの罪悪感を感じていた。
自分の思春期を投影した。
 それからの心配が絶えない人生と、その傍らでいつもの死への憧れを抱きながら生きてた日々が湧いてきて鬱蒼としていた。

それでも癒えてきて言えるのはそこに翻弄されてはいない。
 未消化な感情、押し込めていた感情が意識に上がりたがっているようにも感じられて、日常を過ごす傍らで繊細に感じてはそこに手を伸ばしていた数日だった。

友人が年末に届けてくれた
Mrs Greenappelの「soraniji」という曲を聞きたいと思って洗濯物を干しながら聞いていた。

年末とはまったく違うところで涙が溢れ出て意外さにもビックリした。

「わたしはずっと死にたかったのだから」
その歌詞は
「生きて、生きて欲しい」という歌詞だった。
そこで涙が溢れでてとまらないままに感じながら
「生きて欲しい生きて欲しい」
と口にした。

「死んじゃうかもしれない」
これがあったんだって、わかった。

わたしは子どもに、
こんなに苦しかったら死んじゃうかもしれないという恐怖心があったことに気づいた。

年末に聞いた時は
「よくぞここまで大事にして抱えてこれましたね」と「まだ消えちゃいないよ、ちっちゃな希望を」というところで肯定されたこと、労われたこと、希望を見ながら生きてきた道に祝福が起きていた。

そこを受け入れてもらえたような、
受け入れたら、その奥にあった
「死に憧れながら死を恐れている自分」にタッチした。

セラピーをして、生い立ちから、わたしにある罪悪感は母からもらってきたものだとわかって、母との罪悪感の繋がりは何度も感じては勘違いを癒して繋がり直してきた。

今朝は「死なないでね」という感覚をずっと知っていたことを感じた。
それは罪悪感から、恐れのあまり脅迫されている感じで受け取ったけど、「生きて欲しい」という、「わたしは申し訳ない位それしか出来なかったけど、人生は素晴らしいから、それをあきらめないで生きて欲しい」というメッセージだったと、今日わかった。

これが母の愛だ。

わたしはそれを感じてたからかはわからないけれど、ほんとに貪欲にあきらめないで、世界の美しさを見たいとここまでやってきたんだ。
その力は知っていた。

瞬間、罪悪感が愛に変わった。

とりこぼした母からのギフト母からの愛。そしてわたしのギフトを今うけとった。
わたしにある力をわたしが見た。
息子は大丈夫だ。
わたしがわたしの力を信頼できたから。

罪悪感を超えて、受験生の息子を支えていこうと思う。

あと少し!
共に頑張ろう!

母の思いが今のわたしに届きました。


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