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いやなものはいや、という頑固なところは誰に似た牛持ちに似た

 飛将の面綱が出来上がった日。春の午後の牛舎に4、5人集まっていた(最近は牛舎で庄八さん以外に会うことはめったにない)。みんな5月の連休にある初場所が楽しみでいてもたってもいられず、牛持ちもそうでない人も、冬を越した牛たちの様子を見にやってきたのだ。半年ぶりに顔を合わせて、久しぶりに近況を伝えあったりするのも楽しい。

 私は新しい牛持ちとなったわけだが、次々に、

「このたびはおめでとうございました!」

と声をかけられた。そうか、牛を持つということは、おめでたいことなのだ。ふしぎな感覚がした。またもや習俗の独特感。じつにおもしろい。「おめでとうございます!」じゃないところも、田舎っぽくてじつにいい。

 子育て世代ど真ん中で牛舎にめったに顔を出さないせがれ師匠も、この日はかけつけてくれた。件のへっぴり腰で牛に近づけない私に代わり、出来立てほやほやの面綱を、飛将の顔にかけようとした。

 あとずさろうとする飛将。完全にいやがっている・・・

「ぶきみなんだろうね、得体のしれないものと思っているね」と庄八さん。確かにそうかもしれん。そこへせがれ師匠、「なんだだらしがない、こんなの無理やりこうやって」・・・しっかり顔に面綱をかけられた飛将は固まってしまった。

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 「かっこいい・・・!」と思ったものの、固まって微動だにしない飛将を見たらかわいそうになり、すぐにはずしてもらった。すごくやだったと思う。ごめん飛将。このことはいまだに懺悔している。だんだん慣れてくるからね、と庄八さんがなぐさめてくれた。

 初場所の日、やはり飛将は面綱をいやがるそぶりを見せた。牛のいやがることをしてはいけないし、いやな思いをさせると面綱だけでなく人のことも嫌いになってしまう。その日かけるのはあきらめたが、その後も回を置いて何度かチャレンジした。つけて入場するのはいやだけど、退場のときなら大丈夫なこともあるといわれてやってみたが、それもだめだった。おくびょうでおびえる、というのではなく、これはいや、こいつはどうしてもいや、みたいな感じ。神経質・・・

 面綱をつけてほしい牛持ちおくまと、面綱をつけたくない飛将の攻防は、飛将が6歳になるまで続いた。こどもだからまだ若いから慣れないだけかもしれない、という淡い期待もむなしく、6歳になってもかたくなにつけようとしなかった飛将に根負けし、あのステキカラーの面綱をつけて正装で入場することはあきらめた。

 飛将くんのために、飛将くんがかっこよく見えるよう、牛持ちさんはかっこいい面綱をオーダーしたんだよ、でも飛将がいやならしかたがないね、飛将のやなことはしないよ、しないんだよ、と主にじぶんを説得しながら泣く泣く箱にしまう。準備していってかけてもらえなかった面綱を、やりばなくじぶんの肩からかける牛持ちおくま。私は何度もかけました。飛将はかけていないけど。日の目を見ないかわいそうな面綱。プレゼントしてくれた庄八さんにも大変申し訳ない。庄八さんは笑顔で「だめだねえ!ぶきみなんだね!こればっかりはね、しょうがないね!」と言ってくれた。いい師匠・・・

 あるとき、せがれ師匠が庄八(師匠ではなく牛の方)のとち金を見せてくれた。どなたか先人にいただいたものだそうで、シャリンシャリン鳴る金具の部分に装飾が掘られていて、ものすごくかっこよかった。飛将のとち金はシャリンシャリンのついていないシンプルなものなので、これにシャリンシャリンをつけてもらおうと、羽黒山の牛持ち・時さんに相談した。

 時さんは自分で溶接してとち金を作ってしまう。飛将用に作ってほしいとお願いしたところ、「じゃあこれあげるよ!」といって羽黒山の使っていたものをくださった。本当はせがれ師匠からもらったとち金にシャリンシャリンをつけてほしかったのだけれど、すぐに使えるしありがたくいただいた。

 さっそく引き綱にとりつけて「飛将~!シャリンシャリンだよ~!」とうきうき近づくがぴりっとした空気に。これは飛将、拒絶の空気感・・・飛将は牛なのに、人間みたいに空気感出してくる。くるな、これいじょうちかづくな、ふかい、ふゆかい、それおれきらいだ、そういう空気を出して緊張するのだ。面綱のときとおんなじ・・・いやならしかたがないね、いいよいいよ、飛将がいやならしょうがない、しょうがないね、だってやなんだもんね、よしよし。

 せがれ師匠は言った。「・・・神経質。」

 かくして正装である面綱を拒否、いい音の鳴るとち金も拒否の飛将は、シンプルな姿で角突き場に入場するのでありました・・・でもいいのいいの!もともとかっこいいから飛将は!いいんだよ・・・そう、いいんだよ・・・



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