小説「歌麿、雪月花に誓う」⑨
第9話、
「どなたの墓をお探しかな」
歌麿が振り返ると、良恵和尚が柔和な笑顔で尋ねた。
「善野家、屋号で釜喜様の墓所はどちらでしょうか」
「善野家の墓はあちらだが。お知り合いの方でいらっしゃるか。ついてお出でなさい」
和尚は先に立ち、歌麿を案内した。
天明8(1788)年秋、歌麿は下野栃木河岸に降り立った。江戸で高瀬舟に乗り、江戸川、利根川から渡良瀬川を上り、支流の巴波川の部屋河岸で小型の都賀船に乗り換え、たどり着いた。
河岸前の茶店の女に所在を確かめ、街道沿いの釜喜の門前に立ったが、踏ん切りがつかず二の足を踏んだ。先に菩提寺である近龍寺に墓参に訪れることにした。
この年の夏、師であり育ての父である鳥山石燕がこの世を去った。
前年、12年ぶりに和解し、石燕を精神的支柱として頼りにしていただけに、歌麿は計り知れない喪失感に襲われた。育ての母親である石燕の妻は既に10年前に先立ち、生みの母親は父親の借金のかたに口減らしで売られた身の上で頼るべき故郷も親族も分かるはずもない。
「歌さん、折見て羽織裏に粋な絵を描いてもらえませんか。吉原連の例会や吉原に繰り出す時に羽織りてえんで」
屈託のない笑顔を浮かべて慕ってくる弥太郎の存在が妙に気にかかり、親近感が湧いてくるようになった。細身で撫で肩、眉尻のピンと上がった太い眉も心なしか似ている気がする。血縁の絆をひしひしと感じた。
実の父親の素性を知って以来、歌麿は悩み苦しんできた。なぜ、血を分けた子供を捨てた。女郎の母を身請けするほどの身上持ちの癖に。
そんな胸の奥底に沈殿していた恨みつらみ、憎しみも石燕の死を契機に薄らぎ、墓前に足を向ける気持ちに傾いていた。
「こちらが善野家の墓所でございます」
「和尚様、2代目喜兵衛殿の墓石はどちらでしょうか」
指し示された墓石の脇に明和4(1767)年6月、と没年が刻んである。歌麿が9歳の時で、既に22年の年月が経っていた。
歌麿は花を供え、線香を上げた。
(悪かったな、遅れちまって)
長旅の末、ようやく心の拠り所を得た気がした。
「旅の途中とお見受けする。少し休んでまいらぬか」
「これは忝い。お言葉に甘えて」
和尚に従い、本堂に上がった。九枚笹の家紋が入った豪勢な釣り灯篭が一対、飾ってある。善野家の隆盛ぶりをしのばせた。
庫裏に上がり、歌麿は茶を啜りながら和尚に胸の内を吐露した。誰かに相談し、背中を押してもらいたい衝動に駆られていた。歌麿は善野家との血の関りなどの事情、経過を詳しく話した。
「そうであったか、それは長い間、辛い日々を送り、心を痛めたであろう。大変なご苦労であったな」
「捨てた父親をどれほど、憎んだか分かりません。しかも気付いた時にはすでに実の母親ともども死んでいて、誰に当たり散らせるわけでもなく、なおさら憤懣がたまっちまって」
「そうであろう。お気持ちはよく分かる。それでも気持ちを整理され、その父親の墓参りにお出でになられる気になったと」
「生みの母親、育ての母親を亡くし、そして絵の師でもあった育ての父を亡くし、血のつながる身内はこの善野家しか残っていない。そう気付きと、かけがえのない愛しい存在に思えて」
「それで父親も許せる気になったと」
「蟠りが消えたといえば嘘になりましょう。が、父のおかげで、この世に生を受け、歌麿として今、絵の道を歩んでいることは感謝しなくちゃいけねえと」
「悟りましたな。他人を許し、自分が救われるのです。雑念が消え、穏やかな心境を得たはずです。絵師とおっしゃられたな、信じる道をまい進しなされ。精進すればきっと大成なさる」
和尚の励ましが、歌麿は素直にうれしかった
寺を辞して、歌麿は街道に出た。陽光が西に傾き、立ち並ぶ家屋敷の影が街道に長く伸びている。
多くの旅商人や大八車など行きかう街道を5町程南に下ると、黒板塀を巡らした黒漆喰塗り2階建ての見世蔵があった。欅の一枚板の看板に、醤油醸造 釜喜、と刻まれている。
脇の門から覗くと、広壮な敷地に屋敷、醤油蔵、土蔵などの建造物が立ち並んでいる。取次の下男に来意を告げ、しばらく待つと、廊下を小走りする音が聞こえ、
「これは歌さん、連絡頂ければ迎えに出ましたのに」
と、弥太郎が目を丸くして出迎えた。
奥座敷に通され、歌麿は目をつむり、気持ちを静めた。弥太郎の遊び仲間の先輩として世話になるだけで、無論、素性を明かすつもりはない。これまでの多大な資金提供のお礼をするだけだ、と言い聞かせた。
当主の3代目喜兵衛は着座すると、両手を畳につき、
「歌麿殿、長い間、苦労をかけた。亡き父に代わり、心からお詫び申し上げたい」
と、深々と頭を下げた。
どう切り出そうか思い悩んでいただけに、予想外の展開に歌麿は面食らった。
「とんでもございません。立場も弁えず、ただお礼だけを」
と、返答するのがやっとだった。
「それではお許し頂けるのでしょうか」
「許すも何も、こちらこそ長い間、面倒を見て頂き、感謝しなければなりません。とにかく顔を上げてください」
喜兵衛の真剣な眼差しに、歌麿は心を打たれた。
「父上、歌さんも一体、どういうことですか。これは」
息子の弥太郎が事情を呑み込めず、苛立ちを見せた。
「歌麿殿はお前の叔父であり、私の弟なのだ」
3代目善兵衛の説明に、弥太郎は2、3度瞬きをして歌麿に顔を向けた。
「叔父様とは知らず、歌さん、などと気軽にお呼びして重ね失礼しました」
と、歌麿に頭を下げた。
「いや、今まで通り、歌さんでいい。申し訳ねえが、この事情は他人様に知られたくはねえんで」
座敷に顔を揃えた善野家の面々が静かに頷いた。
最終第10話に続く。
(写真はホタルブクロ)
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