Every dog has his day.⑤
第5話、
黒板塀が巴波川沿いに続き、その塀の内側に白壁土蔵が立ち並ぶ。菅笠、藍染の印半纏を身にまとった船頭の操る小舟が数人の客を乗せて上ってくる。
雨雲が低く垂れこめ、小雨が降っている。綱手道の石畳や屋根瓦が濡れ、しっとりとした風情が蔵の街の魅力を一層、引き立てる。古びた町景色に梅雨模様が似合う。
蕎麦屋、栃木やの2階座敷の窓際から、江上は街並みを眺めている。栃木やは江戸後期の見世蔵を改造し、黒光りした柱や梁が重厚な趣を醸し出している。十割蕎麦特有のざらついた歯切れと香りのよさで人気を呼ぶ。
「遅れまして」
部下の後藤田が息を切らせて、座卓の相向かいに腰を下ろした。白のブラウスに黒のジャケットと、いつも通り控えな装いだ。
「昼時で混んでいるから、先に注文を済まそう。天ぷらそばを頼もうと思うんだが、どうする?」
「待っていただいてたんですか。それじゃ、私も同じで」
江上は、傍の客に料理を運んできた店主の妻らしき中年の店員に注文を伝えた。
「早速だが、ちょっとお願いがあって、呼び出したんだ」
「なんでしょう、改まって私に」
「知っての通り、会社を早期退職することになった。退職期日は9月末なんだが、仕事は今月一杯で7月以降は休暇を取らせてもらうことになった。重ね重ね迷惑をかけて申し訳ない」
「迷惑だなんて、会社をお辞めになるんですから当然じゃないですか。気になさらないでください」
後藤田は今年4月、本社経済部から異動したばかりで、地方勤務は初めてだった。穏やかな性格で仕事にも真面目に取り組み、警察回り、行政、街の話題と取材全般をそつなくこなしている。当面、忙しくなるだろうが、紙面に穴をあけるようなことはないはずで、職場を去る江上にとっての救いだった。
「それで支社長、辞められた後、何か決まっていらっしゃるんですか」
家族持ちなのに退職できて羨ましい、管理職なのに3か月も休暇を取るなんて……社内の嫉妬交じりの非難を耳にする度、後藤田は胸の内がざらつく。世話になった上司には一日も早く第2の人生を切り開いてほしい。
「その件で話をしようと思って。実は栃木市からオファーがあって、歌麿を調べてくれないかっていうんだ」
「えっ、歌麿をですか」
後藤田は愛くるしい二重の両目を瞬いた。
江上は市長の末永から提案された経緯などを伝えた。
「それで、そのお話、お受けになるんですか」
「正直、どうしようか、と。大変、有難い申し出なんだが、ちょっと荷が重い気がして。美術に詳しいわけじゃないし、それに税金を使うわけだから、『調査はしました。でも何も見つかりませんでした』って開き直れないしな」
店員が注文した天そばを運んできた。
「でも、どうでしょう?この手の話って、役所は元々乗り気じゃないし、どの市町村でも郷土史家や歴史好きの市民任せになっていませんか。女達磨図の発見を機会に、行政が予算をつけて本格調査に乗り出すなんて、面白い試みじゃないですか」
「確かに。文化財調査っていうと、開発行為に伴う発掘調査ってイメージだからね。まして歌麿は文化財じゃないし、その意味じゃ、画期的かもしれない」
「そうですよ。それに、支社長ならできそうな気がします」
「おだてても、この昼飯代ぐらいしか出ないよ」
「そうですか、それじゃおだて半分で、遠慮なくごちそうになります。奢っていただいて意見を言うのも厚かましいかもしれませんが、門外漢の記者上りが歌麿を調べるなんて、新鮮で面白くないですか。作品が発掘できるかどうかは二の次として、少なくとも調査を元に栃木市と歌麿との関係を新聞記事みたいに分かりやすく紹介できるんじゃないですか」
女達磨図に続く新たな肉筆画の発見に思いが傾斜しすぎていた。記者は小中学生にも読みこなせるよう平易に記事を仕立てるよう訓練されている。難解な美術書とは一味違う調査記録を残せるかもしれない。
「記者経験があるから面白いか、有難う、参考になった」
「どういたしまして。でも支社長がやろうとしていることは本来、地元紙がやらなきゃいけない仕事ですよね」
後藤田と、足利の相談相手の大倉が異口同音に同じ感想を漏らし、江上は胸のつかえが下り、歌麿調査に取り組む意欲が湧いてきた。
2人はのびきったそばにようやく手を付けた。
食後、後藤田が車で取材先に行き、江上は幸来橋を渡り、大通りに出て支社に向かった。山車会館の北側に重厚な土蔵3棟が並ぶ。歌麿との関係が指摘される善野家の一つ、屋号・釜佐のシンボルだ。江上は質店・釜佐の暖簾を潜った。
特集記事の際、当主の佐次平から「釜佐は歌麿とは関係ない」と釘を刺されたが、一つ聞きたいことが思い浮かんだ。
「この間は取材協力、本当にありがとうございました」
「読みましたよ、この間の歌麿の記事。また行方不明の肉筆画が見つかればいいんでしょうが」
「ところで、歌麿の件で一つ伺いたいことがありまして」
「何でしょう?」
「本家の釜喜、分家の釜伊ともに店は消してしまいましたが、子孫の方って残っていらしゃるんですか」
「ああ、どちらもおりますよ」
「いるんですか。失礼ですけど、どなたかの連絡先って分かりますか」
「ええ、親戚ですから。歌麿を詳しく調べている人もいますが」
「えっ、本当ですか」
(子孫から何か聞き出せるかもしれない)
歌麿調査の端緒が見つかり、江上の胸は高鳴った。
翌日、江上は市長の末永の携帯に連絡し、歌麿調査を引き受けると伝えた。末永は「期待している」と声を弾ませた。
第6話に続く。
第6話:Every dog has his day.⑥|磨知 亨/Machi Akira (note.com)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?