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Every dog has his day.⑥

 第6話、 
 残暑が厳しい9月半ば、江上は市役所に出向き、歌麿調査の事前打ち合わせ会議に出席した。会議には市職員3人、末永市長の信頼が厚い秘書課の磯上の姿も見える。
 いよいよ第2の人生がスタートする。江上は期待に胸を膨らませた。
 7月から早期退職に伴う人生初の長期休暇を予定通り取った。再就職先も決まったことから、喜び勇んで毎日のように足尾周辺の渓流に出かけた。フライフィッシングでイワナ、ヤマメと戯れたが、2週間足らずで飽きてしまった。仕事に追われ、ストレスを抱えるから、平穏な休日が待ち遠しいのが理解できた。
 その後、図書館通いを始め、浮世絵、歌麿の基礎知識を詰め込み、都内の美術館を歩き回っては歌麿の美人画を食い入るように鑑賞し、準備していた。
 会議では冒頭、市地域対策課の安良岡と名乗る中年男が立ち上がり、出席者を紹介し、資料を手に淡々と説明を始めた。
 資料は「文化芸術まちおこし研究会発足について」と標題がつけられ、設立目的、委託期間、組織の在り方、委託業務内容、事業費などが列挙されている。
 会長は製麺会社社長の立花で、芸術文化に造詣が深く、官民協同による秋まつりなど地域活性化事業でも中心的に活動している。ただ、あくまで対外上の名誉職で、事業にはタッチせず、江上が事務局長として切り盛りしてほしいとのことだった。
 事業費は国のリーマンショック後の緊急経済対策に基づく県の基金約5000万円を活用し、市から同研究会の委託期間はこの10月から2年半で、早急に事務所の開設と事務員ら数人の雇用を求められた。
 当初、江上独りで空き店舗に事務所を開設し、電話を引き、パソコン、プリンター、事務机などの事務用品をリースし、スタッフを集めるなど一から立ち上げなくてならない。税務署で開業届、ハローワークに出向き雇用保険、年金事務所に行って厚生年金や健康保険など煩瑣な手続きも処理するようだった。形式上、研究会に雇われる身だが、まるで起業準備のような錯覚を覚えた。サラリーマン生活にどっぷり浸かっていただけに、初めての経験に戸惑う。
「次に委託業務に関しましては……」
 安良岡の説明を聞くにつれ、江上はさらに不安になった。
 主な事業として文化芸術分野の地域資源の発掘・活用・情報発信、地元ゆかりの芸術作家を紹介するカフェや特産品を扱うミュージアムの開設、芸術家を呼び入れ市内に創作拠点を整備、などが含まれている。
 江上は思わず、挙手した。
「ちょっと待ってください。歌麿の調査がメーンではないんですか」
「それはもちろん、地域資源の発掘事業としてやっていただきますが」
「カフェとかミュージアムの開設とか含まれていますが。市長からは歌麿調査ということで依頼されたはずです」
「市としては他の事業もやってもらいたいということです」
 江上が身を乗り出し、再度、口を開こうとすると、安良岡の右隣にいた磯上が右目をつぶり、頭を縦に振った。
 ーーここは我慢して
 磯上のジャスチャーをそう理解し、江上はどうにか言葉を飲み込んだ。
 よく考えれば無理もない。唐突ともいえる市長の提案を受け、52歳の中年男を雇用するために事務局サイドが試行錯誤、苦心した結果なのだろう。財政難にあえぐ中、予算を確保するのも大変だったはずだ。リーマンショックを受けた国の雇用対策とは目の付け所がいい。歌麿調査に絞って、何ら結果が出せないリスクもある。行政側とすれば、事業をやる以上、成果は不可欠だ。
 休暇中、妻・映見が「28年余も勤務した慰労だから」と海外旅行を提案し、ニュージーランドを1週間旅した。バスで娘の奈々子の留学先のダニーデンに向かう途中、車窓を流れる広大な牧草地、のんびりと草をはむヒツジの群れを見ながら、「本当、仕事が決まって安心したわ」と映見が呟いた。
 もし再就職口が決まっていなかったら、旅行どころでなく、まだ仕事探しに奔走していたかもしれない。与えられた仕事に不満を持つのは、天に唾する行為と江上は言い聞かせた。
 引き受ける以上、業務遂行が当然だが、2年半の限られた期間、元新聞記者にできることは知れている。カフェの開設、運営といわれても、営業経験、商売とは縁のない、編集一筋の中年男が満足な成果を上げようがない。市から業務の優先順位を要請されなかったのが、せめてもの救いだった。
(一日も早く、歌麿調査で結果を出して流れをつくるしかない)
 江上は資料の業務内容をにらみながら、構想を思い描いた。
 究極の目標は2年前に発見された女達磨図に続く、新たな肉筆画の発見だ。歌麿の栃木滞在説を確定させる美術史的な裏付けになる。その手段として広範かつ綿密に調査を進め、調査報告を広く情報発信することで世論喚起を高めることで、幻の作品情報がもたらせられるかもしれない。
 研究会独自のホームページを立ち上げ、調査結果を随時、情報発信し、必要に応じてポスター、チラシを作成、委託事業に含まれたミュージアムとして栃木市と歌麿を中心とする作品、史料類を紹介するギャラリーを整備してもいい。与えらえた環境の中で、できることを精一杯やるしかない。
 会議終了後、磯上が廊下で江上を待っていた。
「何か、気分悪くしちゃいましたか?こちらからお願いしておきながら申し訳ない。でも行政には行政の立場があるもんだから」
「全然気にしてませんよ。歌麿調査ができないわけじゃありませんから」
「そう言ってもらえて有難い。市長は江上さんの記者としての取材能力に期待して調査を依頼したんです」
「分かってます。青写真はなんとなくできましたから」
「もう調査方針が定まっているんですか。本当、期待してますから」
 磯上は笑みをたたえ、江上の肩をポンと叩いた。
                          第7話に続く。

 第7話:Every dog has his day.⑦|磨知 亨/Machi Akira (note.com)

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