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小説「或る日の北斎」8

「富嶽よ」
「富嶽?富嶽なら錦絵や挿絵にこれまで何度も描いてきたでしょう。先生程の腕をお持ちなら、何も思い悩むこともありますまい」
「なら、いいんだけどよ。そうもいかねえのよ。富嶽を描き尽くせって大層な注文で、とりあえず36図を仕上げなくちゃならねえ」
「36枚仕立てとは、そりゃ壮大ですね。それは先生にとっても永寿堂にとっても一大勝負ってわけで。江戸っ子がたまげますでしょう」
「まあな」
「どうしたんです、乗り気じゃないように見受けられますが。36図はもちろん大変でしょうが、やりがいはあるでしょう。それとも西与から何か無理な注文でも付けられているんですか」
「まあ、それもそうなんだが……。ところで、お前さんも通人の一人だから聞くんだが、河村岷雪って名前を聞いたことがあるか」
「カワムラミンセツですか。版元、戯作仲間にそのような者はおりませんし、とんと耳にした覚えはありません。それでその男がどうしたんです。富嶽図と何か関係でもあるんですか」
 北斎は傍らの百富士を種彦に差し出した。
「百富士、なるほど」
 種彦は手に取り、北斎の真意を探ろうと丹念に見入った。1図、1図見るにつれ、先駆者の存在に北斎が苦悩していることが分かった。
「別に驚きはありません。所詮は素人の手慰みに過ぎないでしょう。先生の腕とは比べようもありません。跋文にも本人が吐露しているじゃありませんか、人に見すべきものにもあらねど、と」
「そうかい、まあ、そりゃそうなんだが」
 北斎は喉に小骨が引っかかったように言い淀んだ。絵師としての矜持が胸の内を吐露することを躊躇させる。「気になってしょうがねえ」。そんな彼の思惑を見透かすように、種彦は弁じたてた。
「先生、この百富士を大いに参考にしたらどうですか。絵は粗略だが、構図は参考になりましょう。これを土台に、先生の揃物に仕立て直したらいかがですか。私だって源氏物語、あの馬琴だって水滸伝を基にしているんですから。新作といったところで焼き直しがほとんどでしょう。先生を前に釈迦に説法でしょうが、大事なのは今の世相をどう反映させるかじゃないでしょうか」
「まあな」
 北斎は苦笑いを浮かべ、軽く頷いた。
 換骨奪胎、創作はその繰り返しでしかない。絵師としての集大成に賭ける焦りと気負いが募り、その法則を知らず知らずのうちにないがしろにしようとしていた。種彦の指摘で北斎は目から鱗が落ちた。
「先生の培った経験、画技があれば、富嶽の揃物としてきっといい作品に仕上がるにちがいありません」
「評判になりゃいいけどよ」
「大丈夫、売れますよ、先生、自信を持ってもらわないと」
「種彦に尻を引っ叩かれちゃ、しょうがねえな」
「滅相もありません。先生の尻を叩くなどと」
「いいんだよ。種彦のお陰で吹っ切れた。ありがとよ」
 北斎の頬が微かに緩んだ。
「ところで、西与は今度の揃物にやけに自信満々なんだが、何か知ってるかい。実はよ、36図どころか、内々で100図も頼まれているんだ」
「えっ、富嶽を100図もですか、西与が先生に……。なるほど、そういうことですか、西与の狙いは」
 種彦は納得するように頷いた。
「何でえ、薄気味悪いな、種彦。独り合点するんじゃねえ、何か知ってるのかい、西与の胸算用を」
「先生、あくまで噂ですよ。私が言うのもおこがましいんですが、このご時世、お上に睨まれては困りますから。多分、西与は富士講絡みで売るつもりではないでしょうか。西与は隠れ信者で、確か馬喰町周辺で馬八講とかを秘密裏に組織していて、その講元って話です」
「小耳には挟んだことはあるが、西与がそれほど入れ込んでいるとはな」
「江戸八百八講、富士詣は盛んですからね。富士講信者に富嶽図とは、さすが商才に長けた西与です」
「そんなら、西与が自信ありげなのも分かる。売れる見込みはちったあ、立ってるってわけか」
「ただ、先生、くれぐれも気を付けてくださいよ。お上はこの間も禁令を出して、富士講に圧力をかけてますから」
「お前さんこそ、直参旗本って立場を忘れるな。あんまり評判なのも考えもんだ。出る杭は打たれる。一昔前の恋川春町、朋誠堂喜三二みていに詰め腹を切らされちゃ、どうにもならねえ。くれぐれも気をつけな」
                       最終その9、に続く。


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