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Every dog has his day.④

 第4話、
(歌麿を調べてほしい)
 江上にとって予想だにしない誘いだった。
 市長の末永は栃木市生まれで、歌麿には関心を持ち続けていたという。歌麿の栃木市滞在説は心ある市民の間では広く浸透している。浮世絵専門誌や郷土文献などで度々取り上げられ、話題になってきた。2年前の肉筆画「女達磨図」の発見で市民の関心もにわかに高まっている。
「世界的なアーティスト、歌麿がこの栃木市と深く関係がある。謎めいていて夢、ロマンがある。どうにか幻の『雪』をはじめ新たな埋もれた作品、史料を発掘し、それを起爆剤に市の新たな文化、観光資源にぜひつなげたい」
 末永は江上に熱く語った。市の肝いりで調査するための団体をつくることを約束し、江上に事務局長職を要請した。期間は2年半、市街地の空き店舗活用対策も兼ね、事務所を整備し、事務員らも採用し、準備が整い次第、活動を始めてもらいたい考えだった。
 俗に棚から牡丹餅で、江上に再就職口が舞い込んだ。友人や知り合いに頭を下げ、ハローワークに足繁く通る心づもりだった。面倒で気の重くなる求職活動を免れるだけでもありがたい。しかも10月1日からの雇用契約で、退職後、全くの空白期間無しで仕事ができる。収入は大幅にダウンするだろうが、仕事にありつけたただけでも良しとしなくてはならない。心中、収入が途絶えることの不安が募り、毎月、定期収入が銀行口座に振り込まれることの有難さをひしひしと感じていた。
 ーー有期雇用、雇止め急増
 ーー派遣切り、非正規使い捨て
 自社及び新聞各社の紙面には連日、非正規労働者の悲惨な労働状況を訴える見出しが躍っている。前年、平成20(2008)年9月、米投資会社リーマン・ブラザースの破綻を契機に、世界同時不況が吹き荒れている。昨年末には年越し派遣村が登場し、仕事と住処を失った派遣や契約社員のために、労働団体などの支援者が炊き出しを提供する様子が紙面やテレビで大きく紹介され、話題になった。
 最悪ともいえる労働環境の中で、敢えて28年余務めた正社員の道を自ら閉ざす。しかも妻子持ちで。傍目には無謀な選択と見えたに違いない。
 市長、末永のオファーに心が傾く一方、江上はどうにもブレーキペダルを離し、アクセルペダルを踏み込めない。
(調査といっても、何をどうやって)
 そもそも歌麿とは何者なんだろうか。高校時代の日本史や美術で学んだ程度で、脳裏に残るキーワードは江戸中期、化政文化、浮世絵師、美人画。浮世絵の定義は知らず、絵画展で歌麿作品を鑑賞したことはあるが、艶やかな着物姿の女性像くらいしか思い浮かばなかった。学芸員資格を持つわけでなく、美術や浮世絵に造詣が深いわけでない。
 調べたといっても、記者として特集記事をまとめるのにあたり、付け焼刃で郷土史家の話を聞き、教えられた最低限の文献史料に目を通したに過ぎない。
 幻の作品として大作肉筆画の雪をはじめ鐘馗図、巴波川くい打ち図などを紹介したが、既に数10年も行方が知れない。1世代30年という。世代交代は確実に進み、歌麿と当時、深い関係があった豪商・善野3家をはじめ事情を知る人も皆無に等しいだろう。善野3家のうち、既に釜喜と釜伊の店舗は残っていない。果たして栃木市ゆかりの作品残っているのか。漠然としていて、掘り出す自信があるとはいえない。
 そのうえ、これまで多くの専門家や郷土史家らが調査研究を重ね、調べ尽くしているのではないか。先人のたゆまぬ努力の集積が、2年前の女達磨図発見ではないのか。門外漢の元新聞記者に今更、何ができるのか。
 掘りつくされた広大な採石場からダイヤの原石を探し出すような感覚に、江上は襲われている。
「退路を断たんと、次の展望は開けんからな。うまい具合に仕事が舞い込んできたわけだ。結構なことじゃないか」
 大倉は右手で黒縁の眼鏡を上げ、上目遣いに江上の顔を覗き込んだ。
 次の休日、江上は足利に戻り、近所に住む大倉の元を訪れた。
 大倉は平屋のアパート暮らしで、玄関脇の8畳間の本棚は書籍類で埋まり、座卓の周りには資料類が乱雑に積んである。郷土史家の一人で、既に半世紀以上、足利の絵馬一筋に調査研究している。地元の市教委の依頼で絵馬調査に取り組み、地元文芸誌に寄稿したり、講演会なども開く。82歳で、2年前に愛妻を亡くし、独り暮らしだ。
 江上は約20年前、大倉と取材で知り合い、足利の歴史文化に関する幅広い知識と人脈、穏やかな性格に魅かれ、年長の良き相談相手として足繁く通っている。
「2年前、栃木市に着任する時、大倉さんから『栃木市ならまず歌麿を調べなきゃ』と指摘されたじゃないですか。なんか不思議な因縁を感じて」
「天下の歌麿だろう、地元紙としてもっと掘り下げなくちゃと思ってな。それにしても縁があるようじゃな、お天道様の采配かもしれん。まるで渡りに船じゃ」
「どうなんでしょうか?折角の申し出なんですが、受けようか断ろうか、迷っているんですが」
「迷う?どうしてじゃ」
「ちょっと荷が重い気がして。これまで多くの人が調べ尽くしているだろうし、新たな肉筆画を見つけるなんてとても難しい気がして。市の期待に応えるだけの成果が出せるのかが不安で」
「気持ちがわからんわけじゃないが、果たして、本当に調べ尽くされているんだろうか。2、3の地元資料を目にしたことはあるが、とても十分とはいえんな。埋もれた作品を発見できるかどうかは運次第かもしれんが、栃木市との関りが深く調べられているとはとても思えん」
 大倉はゆっくりと腰を上げ、本棚に積み上げられた資料袋を漁り、その中から数枚のコピーを差し出した。
「以前、栃木市の絵馬仲間からもらったもんで、栃木市史の一部じゃ。何か物足りんと思わんか」
 江上は特集記事の取材の際、目を通したことがある。再度、読み込む。「目で見る栃木市史」=昭和53(1978)年発行=内の「歌麿の栃木町」の項で、大作「雪」「月」「花」が善野家で描かれ、3点とも明治時代に海外に流出し、月と花は海外の美術館で所蔵され、その後、雪は国内に戻った、などと記載されている。
「どうじゃ、この記述。曖昧、不明確な点が多くないか」
「確かに善野家と歌麿との関係は説明不足で、地元ゆかりの作品紹介も不十分ですね。雪月花の流出後の所蔵先についても、月はボストン美術館、花はフランスの美術館と間違って記載されてますね。雪については意味深で興味を惹かれますが、裏付けをとっているのか、心もとない感じがします」
「とても郷土史の基本文献とは思えん。市の委託で調査するんじゃろう、もう少しまともな内容に差し替えられるよう頑張ったらどうだ、記者目線で」
「記者目線で?」
 江上の胸の内で何かが弾ける気がした。
                         第5話に続く。

第5話:Every dog has his day.⑤|磨知 亨/Machi Akira (note.com)


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