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小説「ある定年」㉔

 第24話、
 卓上の七輪から秋一番の香りが立ち上っている。高根の花だが、せめて年に1度くらいはその芳醇な香りを鼻腔で感じたくなる。
 女将の芳野は菜箸で、2等分に裂いた一切れを小皿に取り分けた。
「熱いうちに召し上がって。少しずつ裂いて頂くと、香りを楽しめますから」
「女将、今年はどこから仕入れた、この松茸は」
「信州からですわ。それより、2人とも冷めないうちに」
 江上は手で裂いて、口に放り込んだ。
「本当、秋って感じですね」
「まったくだ、酒が進んじまうな」
 市議の猪口は乾杯を求めてビールグラスを差し出した。
 独り旅から帰宅後、江口が定年後の意向を猪口に電話で連絡すると、猪口は「女将も気にしていたから」と房州楼に招待した。折り返し連絡があり、猪口は旬の松茸を用意させたと話していた。
「いずれにしても、江上君が足利に腰据えてくれることになって安心したよ。できることは協力するから、何でも言ってくれ」
「そういって頂けると、光栄です。足利の活性化のために、私なりのやり方で少しでもお役に立てるよう力を尽くしますよ」
「本当、心配してたのよ。足利を離れて遠くに行ってしまうのかって」
 芳野がビール瓶を傾け、継ぎ足した。
「女将さんにまで心配してもらえるなんて、本当、果報者だなってつくづく感じます。女将さんに言われた、足利をお嫌いになったの、は私にとって蜂の一刺しでした。間違っても足利を離れられないなって。
「蜂の一刺し?愛の一刺しじゃないかしら」
「おいおい、女将、俺を差し置入て、それはないだろうよ」
「あら、猪口さん、これまで何度か、蜂の一刺しも、愛の一刺しも差し上げたはずよ。お気づきになりませんでした」
 猪口が両手で後頭部を抱え、やがて3人の笑いが蘭の間に響いた。女将は後でまた来ると席を立った。
「関西に旅に行ってたそうじゃないか。定年祝いで奥様とか」
「いえ、独りで行ってきました。いろいろ気儘に訪ねたいところもありましたし、この先のことも考えたかったので」
「それで、何か、収穫はあったのか」
「そうですね、猪口さんにお願したいのは博物館の早期整備ですね。彦根城にしろ安土城跡にしても博物館などの付随施設がきちんと整備されていたことです。当たり前のことですけど」
「博物館整備は歴史と文化を標榜する我が足利市の最大懸案事業だ。繊維業で潤っている頃に建てときゃよかったんだが、先送り、先送りで財政難のご時世になってしまった。どうにかしなきゃならないんだが」
「足利は中世の文化財の宝庫でしょ。鑁阿寺には重文指定の尊氏寄進の花瓶や文書類が沢山あるのに常設展示する場所がない。堀川国広、山姥切という新たな資源も加わったわけですから、猶更必要なはずです」
「反論しようもないよ。その通りだ。金がないと言っていたら、未来永劫、立ち上がんないからな」
「民間も含めて既存施設の活用であったり、他の公共施設との複合化もあるんじゃないでしょうか」
「市長はその必要性をよく分かっているし、実行力もある。議会としても後押しするつもりだ」
 博物館の存在意義は人類共有の遺産として後世に伝えることだ。そのために資料を集積し、調査研究し、正確な情報として展示を通して人々に伝えることにある。ハードがすべてではないが、ハードが必要不可欠であることもまた確かだろう。
「それで、江上君、何をやるつもりなんだ」
「まだ、明確なビジョンはないんです、お恥ずかしい話ながら。でも、堀川国広ではありませんが、まだまだ埋もれた歴史文化資源ってあると思うんです。観光資源の視点も踏まえて、一度、棚卸する必要性は感じているんです」
「なるほど、それはそうだ。まず歴史文化面だけじゃなく、観光振興面にもつながらないとな。多くの人に来てもらって、お金を落としてもらわないと意味がない」
「同感です。まちおこしって、俗っぽい言い方すると、いかに地元にお金を落としてもらうかだと思うんです。集客は手段であって、目的はお金を使って頂くことでしょう。私の小説もささやかながら、貢献していると思うんです」
「そうすると埋もれた資源でも限定されるかもしれないな。知名度がなくちゃ人は来ないだろう」
「そうでしょうか、そんなこともないと思いますけど。もちろん知名度が高いのに越したことはありませんが、国広だって数いる刀工の1人で、もともと一部の愛刀家に限定されていました。この数年来の全国的な刀剣ブームで一気にクローズアップされ、集客力を持ちました。時流は見逃せません。もちろん対象物の貴重性、足利らしさも必要だろうし。最終的に総合的判断になるのでしょうけど、その時点での要は優先度じゃないでしょうか」
「時流を見極めるか、それは卓見だな。そのためにも、埋もれた歴史文化資源の棚卸は必須だな。ただ現状の行政の仕組みでは難しい気がする。利益第一を念頭に置く民間と違い、行政はそもそもそんな発想に乏しい。それに行政は縦割りで文化は文化、観光は観光部局と、横の連携が不得手だし。とすると民間との連携か」
「体制、組織も大切でしょうが、一番重要なのは首長の熱意、やる気だと思いますよ。トップのリーダーシップ次第でしょう、何事も」
 栃木市の歌麿調査も首長の鶴の一声だった。「歌麿を調べてよ」。予算を確保し、2年半、江上らに調査させた。その結果、肉筆画2点が見つかり、市の所有となり、歌麿まつりのイベントに結びついている。
「とにかく江上君、君の経験に期待するよ。頑張ってくれ」
「私には取材して文章にする力しかありませんが、私なりに何ができるか、じっくり考えて実行しますよ」
 江上は小用に立とうとすると、足がふらついて倒れ掛かった。
「どうした、もう酔っぱらったか。まだ、そんなに飲んじゃいないが」
「いえ、その……」
 息苦しさがまた襲ってきた。
 どうにか襖を開け、廊下に出た。数歩先にトイレがある。1歩、2歩と進むと、胸が苦しくなり、壁に寄りかかってしまった。
「どうしたの江上さん。大丈夫?」
 追加料理を運びに来た女将の芳野が異変に気付いた。江上は肺が苦しくて思うように声が出ない。
「あら、大変、顔色が真っ青。ちょっと待って」
 芳野が廊下を走り去る音が、江上の耳から遠のいていった。
                      第25話に続く。

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