小説「歌麿、雪月花に誓う」余話①
歌麿と栃木市の関り紹介
歌麿と栃木市の関係が広く知られる契機になった資料として、昭和11(1936)年2月1日刊の美術専門紙「美術日本」2号があります。歌麿を特集記事として扱っています。
当時、栃木市内にあった肉筆画として、「巴波川くい打ちの図」「柳外狂詩賛、女達磨図(女達磨図)」「竹之図」「静物」「大黒布袋相撲図(三福神の相撲図)」「鍾鬼之図(鍾馗図)」を列挙。このうち、女達磨図、三福神の相撲図、鍾馗図は現在、栃木市所蔵となっています。
このほか同専門誌では当時、古老の話として等身大の美人数人立の襖絵4枚があったが、火事で焼失したと記録しています。
大作「雪」「月」「花」については、歌麿が栃木市の豪商・善野家に長期滞在し描いたとし、明治12(1879)年11月23日、同市内の定願寺で開催された展覧会目録を紹介。同目録には「雪月花図紙本大物 三幅対 善野氏蔵」と記載されています。また栃木市出身の書画商・大川峰三郎がその展覧の際、善野家から雪月花3幅を同寺まで運んだ証言を記録。同3幅の海外流出の経緯として、書画商・木曽某が栃木市から買い出し、書画商・林忠正の手に渡ったと記しています。
江戸文学研究家・林美一の記した「歌麿が愛した栃木」=季刊浮世絵50号、昭和47(1972)年9月15日発行=によると、この特集記事は歌麿研究家・尾高鮮之助が栃木での調査費用を負担し、浮世絵商・金子孚水の紹介で浮世絵研究家・島田筑波が栃木の調査に当たったということです。
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