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小説「或る日の北斎」その3

 秋晴れに雲一つなく、穏やかな陽光が大川の川面に煌めいている。日本橋から日光街道で浅草まで1里弱。途中、旅人の行き交う馬喰町の賑わいも、浅草橋から臨む柳橋の喧騒も北斎の耳目にふれず、彼はただ漫然と歩き過ぎた。浅草に辿り着き、大川橋の袂に佇み、彼はようやく胸の内を整理している。
 孫・弥太郎の悪事の根深さに驚愕し、その尻を持ち込まれることに慄いたこともある。が、それ以上に「人真似、敷き写し」の捨て台詞は北斎の脳裏に焼き付いて離れない。やくざ者の戯言と一笑に付す図太さを今の彼は持ち合わせていなかった。
 19の歳で勝川春章の門下となり既に50年余、町絵師として筆を握っている。七色唐辛子や柱暦を売り歩き、糊口をしのいだこともある。赤貧に喘ぎながらも日々研鑽を怠ることはなかった。ようやく齢40を過ぎて読本挿絵、50歳を回って絵手本で世間の評価を得たが、真似事の風評が執拗にまとわりつく。胸の内の隙間風は収まるどころか、齢を重ねるたびに加速度的に勢いを増している。
 北斎は立ち止まり、天を仰いだ。
(このままじゃ終われねえ)
 鳶が羽を広げ、円を描くように帆翔し、その朗らかな鳴き声が降り落ちる。その暢気な様子に彼は苛立ちを覚えた。
「どうした父ちゃん、難しい顔で空なんか仰ぎ見て」
 娘・阿栄おえいの威勢のいい濁声が耳に入った。いつの間にか、北斎は浅草藪ノ内の五郎兵衛店に戻っていた。
 3女の阿栄は絵師・南沢等明みなみざわとうめいと離縁し、今春、北斎宅に出戻った。父親譲りの画才に恵まれ、北斎にして「美人画を描かせちゃ阿栄に叶わねえ」と言わしめ、女絵や枕絵の代役を務めることもしばしばだ。ただ、家事は一切やらず、座敷は散らかり放題、煮炊きもせず、その都度、煮売屋で調達してくる。それでも前年6月、後妻・こと、に先立たれた北斎にとっては、かけがいのない身内として心の支えになっている。
「何でもねえ。たまには掃除でもしやがれ」
 鬱憤を晴らすかのように阿栄を怒鳴りつけると、北斎は奥の四畳半間に籠った。書き損じた版下絵が足の踏み場もないほど散乱している。筆を持つ気はせず、庭先に漫然と目を向けた。
 片隅に竜胆の青紫の花々が咲き、その花先に赤蜻蛉が羽を休めている。蜻蛉は両目を盛んに動かし、辺りを見回す。餌の羽虫を探しているのか、天敵の襲来に注意を払っているのか、寸分の隙も見せない。
「爺ちゃん、邪魔するぜ」
 束の間のひと時も許さないように、聞き覚えのある声がした。孫の弥太郎だ。まるで自分の家であるかのようにずかずかと乗り込み、用件を切り出した。
「悪いけど、爺ちゃん、2両ばかり貸してくんねえか」
「いきなりやって来て、また金の無心か。見た通りの暮らしぶりだ。余分な金なんぞねえ。親父の重信に泣きつきゃいいだろうが」
「ありゃ、もう親父なんかじゃねえ。やくざ者は一歩たりとも敷居を跨がせねえ、と何度、頼んでも玄関払いだ。勝手に生んでおいて、ふざけた親父じゃねえか。そう思わねかい、爺ちゃん」
「それで親父の代わりに、この爺に泣きつくってわけか……。それで何に使うんだ、今度は大枚2両も」
「ダチ公と居酒屋を開こうと思って。深川に手頃な空き店が出たんだ。その開業資金ってわけさ。」
「2両じゃなくて3両じゃねえのか。まだ賭場ややくざ者の女に入れ込んでるんじゃねえだろうな」
 北斎の気迫に、弥太郎は両目を泳がせた。
「そんなんじゃねえ。爺ちゃん、きちんと返すから。とにかく貸してくんねえか。ダチ公との約束を破るわけにはいかねえ。一から出直すつもりなんだ。貸してもらえねと、おいら、本当に困っちまって」
「困っちまってか、しょうがねえなあ……」
 北斎が思わせぶりな素振りを見せると、弥太郎は待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「そうかい、爺ちゃん、分かってくれたかい」
「まったく口ばかりやけに回りやがって、調子のいいこった」
「それで、爺ちゃん、金はあるのかい。もったいぶってねえで、早く出してくれ。おいら、急いでいるんだ」
「そういや2、3日前、版元が版下代を持って来たっけ。その辺に包みが転がってるかもしんねえな」
 弥太郎は這いつくばり、座敷の塵芥を片付けながら懸命に探し始めた。
                        その4、に続く。

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