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小説「北斎逍足」⑬

 第13話、
 高さ4丈はあるだろうか。巨大な築山の形状をなし、老若男女がもっこで土や岩などを運んでいる。
「北斎様は江戸でご存じでしょう。我々、月谷卍講の富士塚です。こうやって多少にかかわらず土持するのも修行で、みんな完成を持ちわびてまして」
 先達の善蔵が胸を張った。
 富士塚は行道山に通じる街道脇に造成中だ。7年前から信者総出で土を盛り、表面を黒ぼく石と呼ばれる富士山の溶岩で覆っている。舟運を使い、江戸経由でわざわざ甲州から運ばせた。
 麓に胎内、5合目に小御岳、7合5勺には烏帽子岩を設え、登山道には1合目、2合目と合目石も置かれている。
「いかがです?我々の富士塚は。どこの富士塚にも引けをとらないよう、趣向を凝らしたつもりなんですが」
「いや、驚いた。立派で、江戸の富士塚にも負けやしねえよ。てえしたもんだ」
 北斎は信者の熱心な作業ぶりを注視した。
 江戸の狭苦しい9尺店の座敷には蜜柑箱に日蓮像を納め、北斎は毎朝、手を合わせている。人は無力を悟り、神仏に救いを求める。八百万の神、山川草木悉皆成仏という。人智を超えた自然の存在、その緻密で壮大な営みに神仏を見出し、畏敬の念を抱く。日の本一の富嶽が古より信仰の対象であるのは当然だ。
「そろそろ次に参りましょう。渡良瀬を渡らなきゃなりません。北斎様ご所望の八幡村の八幡様、それにもう一カ所、お連れしますので」
 付き人の嘉吉が促した。
 下野国一社八幡宮は、馬琴の手掛ける読本・椿説弓張月の舞台になっている。
 主人公・源為朝の2男で、源姓足利氏の祖・義康の養子になった2男の朝稚がこの八幡宮に参籠し、父母に夢にでも会いたいと祈願。突然現れた童子のお告げで、御幣を手に、家臣の梁田次郎時員と足利を旅立つ設定になっている。
 2人は渡良瀬川を渡せ舟河南に渡り、八幡宮に向かった。
 八幡宮は街道沿いに、銅造りの鳥居を構えていた。その裏手に2本の松の巨木が根を張り、威圧するかのように見下ろしている。右手に黒松、左手には赤松と、雌雄一対になっている。石畳みの先に石段、その奥の鬱蒼とした林の中に拝殿が見える。
 八幡宮は天喜4(1056)年、源義家、通称・八幡太郎義家が陸奥の豪族・安倍氏の討伐、戦勝を祈願して、山城国の男山八幡宮を勧請した。
 義家の子・義国が足利荘を成立させ、義国の子の義康から足利姓を名乗った。義康の子・義兼は鎌倉幕府を開いた源頼朝の有力御家人として活躍し、鑁阿寺、法界寺を創建。足利氏八代目に室町幕府を開いた尊氏がいる。
「なるほど、八幡太郎義家を端緒に、この八幡宮は足利源氏の源ってわけか」
「義家が陣営を設えた大将軍、源氏の軍勢の借りの宿だった借宿、それに源氏屋敷の地名も残ってまして」
 北斎は拝殿で、二礼二拍手一礼し、手を合わせた。
 八幡神は軍神として源氏らの崇拝を集めた。画業を極めるのは自分との戦いだ。常に妥協という敵と相対し、鎬を削っている。
(己に打ち勝ち、新境地を切り開いて見せる) 
 2人は参拝を済ませると、、八幡宮裏手の山裾に沿って進んだ。しばらく歩くと、小高い山の山頂に小さな祠が遠望できた。
「あれが足利富士です。お連れしたかった場所です」
「足利富士か。富士同様、独立峰の趣で、緑豊かで姿形もなかなかいい」
山頂から北側に峰が下り、渡良瀬川の川岸辺りでこんもりとした林になっている。
「足利富士が男浅間で、あの小山は女浅間と呼ばれています。富士信仰の拠点として住民に崇められています。急坂ですが、男浅間に参りましょう」
 渡良瀬川と女浅間を背にして、雑木林の急な小道をしばらく進んだ。平坦地に出ると、護摩を焚く匂いが鼻を突いた。
 白装束姿の行者2人が洞穴に向かって、一心不乱に読経を唱えている。洞穴は高さ4尺程。穴の上部は煤け、長く修行の場になっていることを暗示している。
「足利富士の胎内洞穴で、胎内とはご神体の木花之佐久夜毘売命の胎内を指します。胎内巡りをすることで、生まれかわり、一から出直すことを願うのです」
 6歳から筆を握り20数年余、取るに足りないものを描き続けてきたのではないか。北斎の世界はどこにある。行者の許しを得て、北斎は洞内に足を踏み入れ、手を合わせ無心に念じた。
(後悔してもしょうがねえ。前に進むんだ)
 2人は再度、山道を登り、山頂へと向かった。富士上浅間神社の石鳥居があり、奥に朱塗りの祠が見えた。
 山頂は開け、周囲を遠望できた。山頂裏側を西から東へと渡良瀬川が滔々と流れ、北方を山並みが連なり、南方は関東平野が果てしなく広がる。
「見渡しのきく冬場ならば、あの方向にくっきり富嶽が望めるのですが」
 鳥居を背に、嘉吉が真っ直ぐ先を指さした。
 真っ青な夏空は地平線へと降りるにつれ、白く霞んでいる。
 北斎は目を細めた。
 大鷹が大きく翼を広げ、下界を見下ろしながら帆翔している。
 目をつぶった。そしてゆっくり見開き、もう一度、彼は目を細めた。
 遠く秩父の山並みの稜線に、端正な富嶽の頂がおぼろげながら見える、気がした。
 30里も離れたこの足利で、富嶽は崇められ、遠望もできる。富嶽は日の本一の山だ。江戸各所、駿河、甲州、諸処から眺める富嶽は多種多様、変幻自在な姿を見せるに違いない。
(富嶽といずれ、格闘だ)
 北斎は凝視したまま、腰の矢立に手を伸ばした。
                         最終第14話に続く。

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