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小説「或る日の北斎」その4

 北斎は弥太郎に背を向けた。また庭先に視線を転じると、あの赤蜻蛉は既に姿を消している。彼は微かな寂寥感に襲われた。
「あった、あったぜ」
 弥太郎は包み紙を引きちぎると、
「ちぇ、1両しか入ってねえや。まあ、しょうがねえか。爺ちゃん、恩に着るぜ。また来るわ」
 と、言い捨て、そそくさと帰っていった。
「金もねえのに。あんな野郎に金くれるのは溝に捨てるようなもんだ。また泣きついてくるって」
 阿栄の金切り声が狭い座敷に響いた。
 弥太郎はまたしつこく無心に来るだろうし、借金が減るわけでもないことを北斎は重々承知している。だが、駄賃を惜しめば、あの留五郎というやくざ者が乗り込んできて大騒ぎになる。「返せ」「返せねえ」と角突き合わせて押し問答するのは面倒で厄介だ。一時しのぎでも、その場が収まりさえすればいい。
(些事に関わっちゃいられねえ)
 北斎はどうにか気持ちを持ち直した。
 6歳で絵に目覚め、一心不乱に描き続けてきた。それでもまだ「猫一匹、まともに描けやしねえ」。齢70を数えたが、画の奥義を窮めるには程遠い。日々研鑽、与えられた画に必死に向き合うしかない。
「おーい、腹減った。昼飯だ。煮売屋に行って、何か仕込んで来い。たまには寿司でも食うか」
 出戻り後、北斎が阿栄を呼ぶ際、「おーい」で事足りている。呼び名が、彼女の画号「応為おうい」になっている。
「金はねえし、またツケか。あら、こりゃどうも、どうぞ中に」
 阿栄の声色が急に変わり、
「永寿堂のご主人がお出でになったよ。しかも父ちゃん、八百善のとびきり贅沢な折詰まで頂いちまって」
 と、日本橋馬喰町二丁目の老舗地本問屋・永寿堂えいじゅどうの3代目当主・西村屋与八にしむらやよはちを招じ入れた。
「御免ください、お邪魔しますよ」
 与八は慣れた手付きで散らかった反故紙や紙屑を脇によけると、そこが指定席であるかのように北斎の前に端座した。
「先生、昼飯はまだでしょう。どうぞ、阿栄さんとお召し上がりになって下さい。浅草に来たついでにお邪魔しただけで、すぐにお暇しますから」
 商人特有の遜った物言いが鼻につく。案の定、泰然とした物腰が押しの強さを醸し出している。版元が絵師の元についでにやって来るはずもなく、しかも手土産まで持ってくることはない。西与の要件は分かり切っている。北斎は切り出される前に防波線を張った。
「急かされても、そう簡単にできるものじゃねえ」
「そりゃ承知してますよ。無理なお願いをしてるのは、手前の方なんですから。焦らずじっくり構えてもらえればよろしいんで」
与八は徐に、凝った銀細工の煙管を取り出し、
「一寸、失礼、一服させてもらいましょう」
 と、きざみ煙草を詰め、鷹揚にゆっくりと燻らせた。口を丸めて紫煙を吐きだすと、舌の根も乾かぬうちに本題絡みの話題を持ち出した。
「そうだ、先生、今度、舶来物のいい顔料が手に入りました。ベロ藍っていいましてね、鮮やかな青に仕上がるんです。露草のように退色はしないし、藍のように扱いが難しくもない。まさに魔法のような顔料で」
「そりゃ結構だが、舶来ものじゃ高いんだろうよ。町絵師がそう簡単に使える代物じゃなさそうだが」
「全くその通りでして、阿蘭陀から長崎平戸にわずかしか入らないんで、入手は困難、もちろん値段もとびきり高い。ですがね、どうにか大坂の問屋から手に入れる見通しがつきまして」
「そんな貴重な顔料を手に入れて、一体、どうする気なんだ」
「どうするって、そりゃ、先生にまず使ってもらいたいからお話ししたんですよ」
「今度の富嶽にかい」
「そうですとも」
 西与は北斎を誘導するように、間髪入れずに二の矢を継いだ。
「それに、面白い古書もお持ちしましてね。是非、参考にしてもらえればと思いまして」
 与八は風呂敷包みを解くと、4冊の古書を取り出した。
                         その5、に続く。


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