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小説「歌麿、雪月花に誓う」⑧

 第8話、
「でかした、歌麿。見事な挿絵だ」
 蔦重は目を瞠った。
 藤豆に絡みつく毛虫、露草の陰から舌を出して蜥蜴を狙う蛇、1匹の蛙は蓮の葉で羽を休める黄金虫に今にも襲い掛かろうとしている。
 草花と小動物が絶妙に配置され、いずれの生き物も精緻に描かれ、躍動感、生気に溢れている。撰者の宿屋飯盛をはじめ赤良、菅江ら当代一流の狂歌を引き立て、尚且つ、挿絵だけでも人々を魅了する独自の世界を創り出している。
「身に余るお言葉で」
 歌麿は込み上げる歓喜に、感極まり目頭を押さえた。
 絵入り狂歌本を手掛けて2年後の天明7(1787)年夏、蔦重から新たな狂歌本の挿絵を指示された。翌年正月、「画本虫撰」として発刊予定という。
 出版に向けた狂歌会が8月14日夜、墨田川畔で開かれた。狂歌師30人の詠む1句、1句を頭に叩き込み、その狂歌に合う情景を思い描いた。昼夜、画室にこもり、画帳に速記した覚書を睨みながら、筆を走らせた。時には庭や雑木林、河原に出かけ、動植物の写生に明け暮れた。
 蔦重は画本虫撰の下絵を手元に置き、煙管に火を付けた。満足そうにゆっくり紫煙を吐いた。
「ところで、例のワ印の方は捗っているのかい」
「ええ、どうにか。精一杯、筆を走らせました」
「ついでだ、見せておくれ」
 歌麿は書架に積んである下絵の束を手に取ると、蔦重の前に置いた。
 蔦重は1枚、1枚、じっくり眺めては、ほくそ笑んでいる。
「旦那、いかがなんで、出来の方は」
 歌麿は身を乗り出した。
「てえしたもんだ。この一枚なんぞ、傑作じゃねえのか」
 蔦重は1枚の下絵を歌麿に向けた。
 料亭の座敷で、男と女が横座りで接吻を交わす。男の顎に女の左手が優しく添えられ、情の深さをうかがい知れる。女は後ろ姿で絣の着物からはだけた項、赤の長襦袢から覗く尻から太ももが艶めかしい。
「驚いたぜ、こんなところからこっちが睨まれているとはなあ」
 蔦重は下絵のその部分を指差した。女の鬢の下から男の切れ長の右目が、邪魔するな、とばかり威圧している。
「12枚、どの絵も設定、構図は文句ねえし、細密で真に迫っている。いい出来じゃねえか、恐れ入ったよ」
「そう言ってもらえると精進した甲斐が報われて」
 吉原遊郭、品川や深川などの岡場所に通い続け、遊女、売女を何枚描いたろう。相方の男を雇い、愛妻のおりよにも無理を承知で様々な姿態を取らせ、男と女が我を忘れ、愛の極致に酔いしれる姿を克明に描き続けた。
「悟ったようだな、春画の極意を」
「滅相もねえ。ただ、まぐわいの時、隠そうにも隠し切れない女の性が溢れ出る。それを寸分違わず、描き残そうとしただけで」
「それがわかりゃあ、大したもんだ。こりゃ、歌まくら、って名付けて刷るつもりだ。依頼主もさぞ満足してくれるだろうよ」
「それで次は何を手掛けりゃいいんで」
「焦るんじゃねえ。技量は身についたが、売れる女絵を生み出すのは簡単なことじゃねえ。精進を続けて、雌伏して時の来るのを待つしかねえ」
 歌麿は唇を噛み締めた。
「ところでだ、画本虫撰の方は耕書堂にとって、この先の商売を占うことになる。ついてはふさわしい人物の推薦文が欲しい。誰か適任者はいねえか」
「適任者と言われても、とにかく旦那様の眼鏡に適う人物で」
 一呼吸おいて、蔦重ははたと思いついたように、歌麿に問いかけた。
「石燕先生じゃ、どうだい」
「鳥山石燕先生に推薦文を。ご承知のように、不義理ばかりしでかし、顔を合わせることさえ憚られているんで」
 歌麿は顔をしかめた。
 彼は18歳の時、石燕門下でありながら勝手に北川豊章の名で、富本節浄瑠璃正本「四十八手恋所訳」の表紙絵を描き、石燕の逆鱗に触れた。石燕の家を飛び出し独立を模索したが、永寿堂西村屋らの版元に相手にされず、行く当てもなく、舞い戻った。詫びを入れたのも束の間、兄弟子・志水燕十の伝手で蔦重宅に寄宿し、今に至っている。
「一人前の絵師になりてえんだろう。恩師の怒りを解き、よき理解者になってもらうのが処世術っていうもんだ」
 
 根岸は上野の山陰で、鄙びた田園地帯に音無川の清流が流れ、文人や大店の主人の隠棲地として知られる。周辺の櫟や小楢の雑木が紅葉しはじめ、稲田が黄金色に輝く。
 数日後、歌麿は石燕を訪ねた。石燕は竹林に囲まれた小体な屋敷に住んでいた。
「なんでえ、歌麿じゃねえか。そんなとこに突っ立っていねえで、中に入れ」
 石燕は何の蟠りもない様子で、歌麿を受け入れた。
「今更、敷居を跨げる身じゃねえことは重々承知していますが、どうしてもお願いしてえことがございまして」
「そうかい、少しは反省しているようだな。見ての通り、もう生先は長かねえ。門人の一人には違えねえんだ。出来ることなら、役に立とうじゃねえか。それで、その用件ってのは」
 師匠の懐の深さに感激しながら、歌麿は風呂敷包みを開け、
「どうか、ご覧いただきてえ」
 と、版下絵の束を差し出した。
 石燕は左手で顎を撫でながら、一枚、また一枚、凝視しては頷いた。
「いいじゃねえかい。腕上げたな、歌麿。絵入り狂歌本って言ったなあ、その趣向も面白え。こりゃ当たるぞ」
「お褒めの言葉、身に余ります。そこで、ぜひ、この絵本の推薦文をお願いできねえでしょうか。版元からも、是非、石燕先生にと言付かっております」
「蔦重が了解してんのかい。それなら断る理由もねえ」
 石燕に対する懸念は独り合点の妄想に過ぎなかった。胸の奥に長く沈殿していた澱が消え去り、新たな創作意欲がみなぎる気がした。
 庭先に目を遣ると、真っ赤に熟した柿の実を、鵯が盛んについばんでいる。穏やかな秋の風景に、歌麿の心は一層和んだ。
「歌麿よ、今度は俺の頼みを聞いてくんねえか」
 石燕の神妙な言い回しに、一転、歌麿はうろたえ、頼みの趣旨を察した。
「その件についちゃ、まだ」
「まだ勘弁できねえってか。聞く耳持たなくても、だけど伝えとくぜ。いつ、お迎えが来てもおかしくねえ身の上だしな」
 12年ぶりの再会で、石燕は歌麿に実の父親の素性を伝えた。
 陽光が傾き、西日が座敷の奥まで射し込んでいる。
「おっかさんもそうだが、おとっちゃんも独りしかいねえ。許してやりな」
 歌麿は口元を引き締めたまま、擦り減った畳の縁を見詰めていた。
                        第9話に続く。

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