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小説「歌麿、雪月花に誓う」①

  第1話、
 品川沖の雲間に満月がかかり、凪いだ波間には幾艘かの小舟が浮かぶ。長閑な遠景を望む妓楼・相模屋の大座敷では、遊女ら19人が宴の準備に忙しい。
 相模屋のある品川宿は東海道一の宿場で、北、南の各品川宿、歩行新宿の計3宿に旅籠屋90軒余、飯売女1300人余りを抱える。最大の岡場所として、北国の吉原に次ぐ賑わいを見せる。相模屋は一、二の人気を誇り、海鼠壁から土蔵相模とも呼ばれる。
 座敷中央で白地に笹模様の打掛を纏う大の女郎が斜に振り向き、芸妓が三味線の調子を合わせ、遊女が琴の音合わせに余念がない。片隅では遊女が馴染客からの付け文に目を凝らす。肩越しに覗かれているのも気づかずに。広縁では禿が追いかけっこに興じ、女中が丸盆に料理を乗せ、座敷に運び込む。奥の障子に、ただ一人、男が煙管を燻らせている。今夜の客だろう。
「こりゃ、恐れ入った。品川の遊里をこれほど壮麗、緻密に再現するとはな。てえしたもんだ」
 注文主の呉服太物商、釜伊の当主・善野伊兵衛がうなった。
 天明8(1788)年師走、日光例幣使街道の下野栃木宿にある近龍寺本堂には縦5尺、横1丈の巨大な掛軸が飾られ、善野3家の面々らが顔を揃えた。善野三家とは本家の釜喜、分家の釜佐、釜伊で、近龍寺は菩提寺になっている。
 善野家は近江守山の出で、享保年間、初代喜左衛門が行商でこの地を訪れ、醤油醸造の釜喜を興した。晩年、弟に2代目を譲り、喜左衛門は質屋の釜佐を開き、佐兵衛を名乗った。釜伊は釜喜2代目喜兵衛の次男弥次平が分家し、伊兵衛と改名し店を切り盛りする。伊兵衛にとって3代目善野喜兵衛は実兄となる。
「画中画も洒落てますね。左の衝立に高崇谷の獅子、右の衝立には狩野美信の龍、それと欄間の額には四方赤良の狂歌を入れ込むとは。どれどれ」
 伊兵衛の甥、善野弥太郎が画幅に顔を寄せて、狂歌を読み始めた。
 ――てる月の、鏡を抜いて 樽まくら 雪もこんこん、花もさけさけ
「なるほど、そういうことかい。雪月花、3部作を暗示しているわけだ。芸が細けえや。恐れ入ったよ」
 伊兵衛が感嘆の声を上げた。
「まさに眼福というべき仕上がりでは。歌麿殿の心意気があふれている」
 良恵和尚が目尻に皺を寄せ、微笑みかけた。
「気に入ってもらえればなによりで。今持てる力は出し切りました」
 浮世絵師・喜多川歌麿は、大作を描き終えて安堵の溜息をついた。密かに女絵に挑む自信も芽生えている。
 この1カ月余、歌麿は伊兵衛宅の一室に籠り、一心不乱に取り組んだ。
 画題は歌麿任せとなり、伊兵衛の注文に、
「まず品川、月と品川で描いてみましょう」
 と、歌麿は即座に応じた。
(あの絵を超えなきゃならねえ)
 歌麿の念頭には清長美人がある。月と品川の取り合わせで、今を時めく女絵の名手、鳥居清長の錦絵が脳裏に浮かび上がった。品川を舞台にした揃物、美南見十二候の内の一枚、月見の宴だった。
 対抗心に燃え、気負ってみたものの、用意された画紙の広大な余白を目の前にして、歌麿はたじろいだ。画紙は清渡来の宣紙で、伊兵衛が家宝用にと、わざわざ江戸から取り寄せた。幅4尺の紙を2枚繋ぎ、大判錦絵で50枚分、掛け軸で20幅分はある。
 巨大な画幅の隅々まで緊張感を漲らせるには緻密な構成が必要となる。海に月、座敷に何人の遊女らをどう配置し、どんな姿に描こうか。昼夜、寝る暇も惜しんで、幾度も構想を練り直し、何度も下書きを繰り返した。
(女絵を極める)
 萎える気持ちを奮い起こし、完成に持ち込めたのは、偏に胸に誓った固い決意であり、宣戦布告ともいえた。版元・蔦屋重三郎の庇護の下、狂歌絵本・画本虫撰で筆の確かさを認められ、歌まくらで枕絵本の新境地を見せつけた矜持がある。蔦重から全幅の信頼を獲得し、歌麿は清長を超える独自の女絵創作に絵師人生を賭けることにした。
「すると吉原は桜花、深川は雪って組み合わせか。先々が楽しみってもんだ」
 伊兵衛が弾んだ声で辺りを見回し、
「何だい、弥太郎、不審な顔つきして」
 と、急に声色を落とした。
 弥太郎は釜喜3代目喜兵衛の嫡男で、20歳となる。商用と称して江戸に出ては粋人の修行を積む。10歳年上の歌麿を兄貴分として慕い、狂歌名・通用亭徳成で狂歌遊びに興じ、吉原遊郭、品川、深川の岡場所にもしばしば繰り出す。
「だけど叔父さん、この絵は画龍点睛を欠くというか」
「何だって、はっきり言いな」
「だから、その、この絵には落款が入っていないんで」
「そういや、確かに」
 弥太郎の指摘に、伊兵衛は再度、確認すると、歌麿に不審顔を向けた。
「そんなことはありません。よくご覧になって。きちんと入っているはずで」
 伊兵衛らは目を皿のようにして、隅々まで見渡した。
「だって歌さん、歌麿の署名もなければ、朱印も押されていねえ。何度見たって、落款は入っていねえ」
 弥太郎がどうにも納得のいかない表情を浮かべた。
「分かりずれえか、隠し落款にしたからな。弥太郎、もう一度、よく見てくれ」
 注文の経緯や事情を踏まえれば無落款でもいいし、渾身の作を落款でいささかも損ないたくはない、とも思った。熟慮の上、歌麿は家宝に相応しい落款を思い立った。
 すると、弥太郎が画幅の右から2人目の女の肩を指さして、
「えっ、こんなところに入っていらあ。なんて粋な計らいで」
 と、声を上ずらせて叫んだ。
「どれどれ、どこにあるんだ」
 と、伊兵衛らが顔を集め、凝視した。
「そういうことか、家紋の九枚笹か」
「いかがで、こんな隠し落款は」
「これに勝る落款はねえ。まさに血の証ってわけだ」
 成り行きを静かに見守っていた釜喜3代目、善野喜兵衛がゆっくり頷いた。歌麿は胸の内のしこりが消えるのを感じた。
                          第2話に続く。

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