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小説「歌麿、雪月花に誓う」⑥

  第6話、
 歌麿は筆を止めては版下絵を睨み、時折、溜息をついている。隅田川を望む料亭の一室を舞台に、女郎をどう描こうか迷っている。というより、脳裏にへばりついた錦絵が筆の邪魔をしている。画室の片隅にある書架をちらりと見た。気になって仕方ない。
 天明4(1884)年4月16日未明、吉原遊郭内の水道尻から出火、廓は全焼し、両国などで仮宅営業となった。廓から制作依頼があり、蔦重の指示で、歌麿は新吉原仮宅両国之図として描くことになった。
「どうにもうまく描けねえ。どうすりゃいいんだい」
 歌麿は左手で腰をさすりながら立ち上がり、障子を開けた。
 空はどんよりと曇り、梅雨の長雨で内庭の植え込みがしっとり濡れている。手水鉢の傍らにある蛍袋の長い茎に、釣鐘型の赤紫色の花が穂状に並んでいる。憂鬱な心境を癒すはずのその彩が、皮肉にも忌わしい記憶を鮮明化させる。
 3日前の夕刻だった。歌麿は番頭の勇吉に所用があり、耕書堂の店先に顔を出そうとすると、手代と客のやり取りが聞こえた。
「なんだいこの女絵は清長そっくりじゃねえか」
 暖簾越しに覗くと、商人風の男が平台に陳列されている錦絵を指さして、手代に食って掛かっている。
「女の立ち姿、それに大判2枚続と仕立てまで一緒だ。お前さんも見たこたぁあるだろう、清長の風俗東之錦なんかを」
「へい、まあ」
「歌麿って言うのかい、この絵を描いたのは。人真似しているうちは一人前にはなれねえな」
「お客さん、そう、おっしゃらずに。それじゃ、どうですこの一枚は」
 手代が別の錦絵を差し出すと、その客は、
「何々、青楼仁和嘉芸者部だって。稚拙で生硬だねえ。とても16文を払う気にはなんねえや」
 と、吐き捨てた。
 去年夏、吉原の妓楼で、歌麿は清長に冷笑された。
「吉原俄ねえ、どんな女絵を見せてもらえるか。楽しみにしてますよ」
 と。
 何が何でも見返してみせると心に誓った。だが、対抗心が空回りするだけで、筆が進まず、納期に迫られ気持ちが焦るばかりだった。苦心惨憺の末、どうにか仕上げた。
「どうです、出来は」
 歌麿の問いに、蔦重は腕を組み、版下絵を睨んでいる。
「良いんで、悪いんで。悪きゃ、描き直しますから。はっきりおっしゃってもらいてえんで」
「描き直すことはねえ。歌さんなりに精一杯仕上げたんだろう」
 蔦重の淡々とした返答に、歌麿は歯噛みするしかなかった。
 清長の女絵は今を時めく。3、4年前から、吉原の女郎らを扱った揃物の当世遊里美人合で評判となり、版元西村屋与八は清長の腕に惚れ込み、それまで磯田湖龍斎に描かせていた同じく揃物の雛形若菜の初模様を任せた。
 清長の描く女はどれも優美であでやかで、色気が匂い立つ。筆致も女の柔肌を感じさせるほど滑らかで、表情も所作も細かい。現実離れした細身、8頭身を生み出すその豪胆な発想力にも恐れ入る。
 歌麿は再度、書架に目を遣った。重い足取りで書架に近づくと、平積みされた画紙の間から大判錦絵の入った包みを手に取った。
 その錦絵は10日ほど前、下野栃木宿の善野弥太郎が持って来た。
「上京したのかい、そういや、吉原連の集まりがあったなあ」
「歌さんは、顔を出さないんですか」
「忙しくて、遊んでいる暇はねえな、ところでなんだい、手元にあるのは」
「これですか、清長の最新作、揃物の美南見十二候ですよ」
 弥太郎が包みを開けようとすると、
「いや、後でいいだろう、見るのは。じっくり見てえんでな」
「そうですか、じゃ、置いていきましょう。土産用に買ったんで、また買い直しゃいいんですから」
 歌麿は包みのまま、書架に乗せた。以来、包みを開いていない。開けなかったのが本音だった。評判なのは聞いている。清長との圧倒的な力の差を見せつけられるのが怖かった。
(そうはいってもなあ。見ねえわけいかねえし)
 歌麿は恐る恐る包装紙を外し、大判錦絵2枚綴を手に取った。一目見て出来栄えの良さに驚愕した。
 真夏の宵闇、廓で遊興を終えた男衆を遊女ら4人が見送っている。そこに別の遊女2人が擦れ違う。その男衆が振り向きざまに流し目を送り、見送りの遊女らは嫉妬の眼差しを向けている。
 墨一色の背景に描き出された遊女らは艶やかで美しく、静謐な風情に潜む女同士の火花の散らし合いが観る者を魅了する。
(ますますうまくなりやがった。どうすりゃ、追い付けるんだ)
 究極ともいえる清長の女絵を、歌麿はただ食い入るように見つめた。
                           第7話に続く。

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