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小説「歌麿、雪月花に誓う」②

  第2話、
 5年前に遡る。
 どんよりとした雲が低く垂れこめ、陽光もぼんやり陰っている。昨夜来、北西の方角から雷鳴に似た轟音が鳴り響き、時が経つにつれ、ますます地響きを伴って江戸の町を震撼させている。
「空模様のわりには一向に雨も降らないし、何か、おかしな天気です。不吉なことでも起きなきゃいいんですが」
 新妻のおりよが眉根に皺を寄せると、
「心配すんな。お天道様のご機嫌がちっと悪いだけだろ」
 歌麿は扇子で胸元に風を送りながら、おどけてみせた。
 天明3(1783)年7月、江戸は不穏な雰囲気に包まれている。風もなく軒先の風鈴も手持無沙汰で、やけに蒸し暑い。
 歌麿とおりよ夫婦は新吉原大門前の書肆・耕書堂、蔦屋重三郎宅に寄寓し、幸せな新婚生活を送っている。
 店先に顔を出すと、番頭の勇助が待ちかねたように声を掛けた。
「おりよさんが怖がってねえかい。今年に入って大地震、大火も相次ぎ、春先から大雨続きで夏らしくもねえ」
「まったくだ。この間は小石川辺りで大水が出て橋が流されたし、嫌な年に違えねえ」
「商いに影響がでなけりゃいいが。そうだ、旦那様がお呼びですぜ。お客人も一緒で」
 座敷に入ると、蔦重と差し向かいに商人風の若い男が座っている。年の頃、15、6だろうか。青々とした月代、涼やかな目元が清々しい。
「お客人を紹介する前に、大事なことを話しておこう。この秋にも店を日本橋に移すことになった」
「日本橋にですか、そりゃ目出たい。仙鶴堂、永寿堂、須原屋と老舗の版元が鎬を削る本拠地で、勝負に出るってことで」
「そういうことだ。だけど、心配はいらねえよ、歌さんの座敷も用意するから。これまで通り、好きに使っておくれ」
 蔦重は寛延3(1750)年、新吉原生まれで、24歳で吉原遊郭大門前近くの茶屋の軒先を借り、遊郭の案内本・吉原細見を商い始めた。その後、大門前に店を構え、往来物、稽古本に黄表紙、洒落本などの出版を幅広く手掛け、新興の版元として台頭している。
「通油町の丸屋小兵衛の店が売りに出てな。これも何かの縁だ。時流に乗って勝負する時期が来たということだ」
 蔦重は口元を引き締め、瞳を輝かせた。
「お前さんも精々、頑張っておくれ。行く行くは屋台骨を支えてもらわなきゃならねえ」
「旦那にそう期待されちゃ、まったくありがてえ話で。とにかく一生懸命やらせてもらいます」
 歌麿は深々と頭を下げた。
「そうだ、遅れちまった、この若え衆は下野栃木宿の善野弥太郎さんだ。通用亭徳成っていう狂歌名も持っている。縁があってお付き合いすることになった」
「善野でございます。家業は醤油醸造で、屋号は釜喜でございます。何卒、お近づきの程、よろしくお願いします」
「歌麿、喜多川歌麿と申します。この旦那に厄介になり、絵師で食っております。こちらこそお見知りおきを」
「弥太郎さんは元服終えたばかりだが、狂歌、戯作、錦絵、江戸の粋を身につけてえらしい。江戸にちょくちょく来るそうだから、面倒見てやろう」
 歌麿は困惑した。蔦重の親類縁者でもなければ商売仲間の関係者でもないようだ。しかも10歳も年下で奥川筋の下野からやって来た若造とどんな因縁があるのか。蔦重が引き合わせる意図が分からない。
「ところで、下野の天気はどうだい。江戸はこの通り、おかしな具合だが」
「信濃と上野の境にある浅間山が大噴火したようで、下野の方まで火山灰が降ってきています。春ごろから噴火を繰り返し、危ないと騒いでいたんですが」
「噴火とは、そりゃ困ったもんだ。早く収まってくれりゃいいが」
 浅間山ではこの年4月に噴煙が立ち上り、7月、大噴火が始まった。大量の軽石や火山灰が火口から吹き出し、空は黒煙で覆われ、火砕流が流れ下り、大災害を引き起こした。死者1600人以上を数えた。噴煙による日射量不足で冷害となり、関東や東北は壊滅的な被害を受け、江戸時代最悪の天明の大飢饉を引き起こすことになる。
 未曾有の災害に勝るとも劣らない激震が身の上に降りかかることを、この時、歌麿は知らない。
「日本橋進出の前祝いってわけじゃねえが、今夜、吉原に繰り出すことになっている。お前さんらは若えんだ、浅間山に負けねえぐれえ爆発しておくれ」
 蔦重は慈しむような眼差しを2人に向けた。
                           第3話に続く。

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