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小説「ある定年」①

  小説「ある定年」掲載に当たり
 今、地元の足利市(栃木県)が名刀「山姥切国広」で湧いています。取得に向けた同市のクラウドファンディングに多くのファンが賛同し、購入のための寄付が続々と寄せられています。
 足利市が所有者と合意し、取得方針を公表したのが昨年2022(令和4)6月、私にとって記者生活最後の大ニュースでした。成功裏に終えた山姥切国広展の3か月後でした。
 3か月後、私はリストラで失職しました。たまたま65歳定年と重なったものの、余生の在り方が喫緊の課題となりました。
 定年後をどう自分らしく生きようか。
 日本人男性の平均寿命は約84歳で、残り19年。健康寿命に至っては72歳なので、この後、わずか7年しか勝手気ままにふるまえないと実感し、愕然としました。
 社会人としてこれまで、新聞記者28年、街おこしとしての歌麿調査を経て、再度、新聞記者9年。歌麿調査を契機に、地域資源の発掘に傾いていました。その一つが山姥切国広でした。
 そして人生終盤、第4の人生を迎えました。
「何がやりたい?何ができる?やり残したことは?」。
 自問自答の産物がこの小説でした。


 その1、
 スマホの着信音が短く鳴った。
「私の携帯じゃないわ。あなたの会社のよ」
 妻の千香に促され、江上は箸を置いた。ショートメールらしい。テレビは朝7時32分を知らせている。普段、担当デスクが起きている時間ではない。事件発生だろうか。
 スマホを手に取ると、待ち受け画面に「石原真治 おはようございます」とある。急いでパスワードを打ち込み、ショートメールを開いた。
 ――今朝の記事を拝見しました。山姥切展の盛況ぶりをトップ記事で扱って頂き、感謝申し上げる次第です。ご存じの通り、今回の刀剣展はコロナ禍での商業観光振興を目的に足利市の総力を挙げた事業で、予想以上の反響に市長として胸をなで下ろしています。会期も残り1カ月となり、商店街の皆さんら民間の協力も得ながら全国からいらっしゃるファンをおもてなしする所存です。
「ごはん冷めちゃうじゃない。一体、誰から?」
「市長からだ」
「市長からって、どこの」
「足利の市長からだ」
「何でわざわざ、こんな朝早くに」
「今日の山姥切展の記事さ。盛況だって書いたから、お礼のメールだ」
「今度もすごい人気みたいね。この間、街中に行ったら、美術館の周辺、2、3人連れの女性らがいっぱいいたわ」
 安土桃山時代の刀工・堀川国広の最高傑作とされる山姥切国広展は2022(令和4)年春、足利市立美術館で開催され、連日、多くのファンが会場となる足利市立美術館に訪れている。山姥切国広は戦国時代、足利領主だった長尾顕長の依頼を受け国広が鍛えた足利ゆかりの名刀。5年前、足利で初展示された際、入館者は38000人を数えた。市はコロナ禍の影響で一段と地盤沈下する商業観光振興のテコ入れとして再展示している。
「それでまた行くの、美術館に」
「まあ、日課みたいなもんだから。終わった後の検証記事もあるし」
 オンラインゲームを発端とする刀剣ブームで、若い女性を中心とするファンが全国の刀剣展に足を運び、彼女らは観る、買う、食う、を繰り返し、地元に金を落とす。一地方都市で全国的な社会現象を取材する機会はめったにない。江上は初展示以来、足利の刀剣展を追い続けている。
「あんまり無理しないで。最近、咳き込んでいるじゃない、コロナじゃ困るよ、私も濃厚接触者で会社に行けなくなっちゃうから。それにもう歳だし、今年定年なんだから。しかも派遣社員なんでしょ、ほどほどにね」
 江上は半年契約の非正規労働者で、今年9月には65歳になる。妻の小言を反芻すると、逐一、最もだ。結婚後37年、妻の観察眼と打算には抗弁しようもない。
「そうだ、今日は早く行かなきゃ。取材があったんだ」
 妻の追い打ちを避けるように、江上は箸を持ち直し、朝食をかきこんだ。肥満防止のため、朝食はこの10年来、ご飯一膳に焼き海苔5枚、コップ1杯のトマトジュースと決めている。
 TVでロシアのウクライナ侵攻を伝えている。「私、死にたくない」。ウクライナの少女が両目から涙を流し、訴えている。妻の小言は蚊の羽音でしかない。
 仕事部屋で取材の支度をしていると、会社のスマホが電話の着信を知らせた。同僚記者の山口からだ。
「おはよう。今日載った刀剣展の写真はいいねえ、山姥切を見詰める刀剣女子の真剣さが伝わって」
「あのアングル、結構、苦労したんだ。カメラを向けると、ほとんどの女性が避けてしまうからね。それにショーケースのガラスも反射して邪魔だし。ちょっと遠めから何度もトライしたんだ」
「何度も足を運んだんだろう。足利の刀剣展は江上さんの独擅場だからな」
「そんなことはないけど、好きなだけだよ。そういえば、さっき、市長からお礼のメールをもらったよ」
「本当?確かにこの記事は行政の後押しになっているからな」
「記者が行政の提灯持ちになっちゃいけないんだけど」
「ケースバイケースだよ。コロナ禍で自粛自粛のご時世に、全国的なイベントを仕掛けたのは見事じゃないかな」
「心配なのはコロナの集団感染。無事、会期を終えてもらいたいけど」
「入場制限したりして感染予防対策も徹底しているようだし、どうにかなるんじゃない。それにしても朝刊をチェックして、直ぐにお礼のメールをするなんて、足利の市長さんはさすが政治家だね。祖父、親父の跡を継いだ政治家一家だけはある」
 就業日の一日はほとんど、山口とのこんな近況報告で始まる。
「ところで、会社の方はどうなってるんだろう。厳しい経営状況が続いているようだし。何か、情報は入っている?」
「相変わらず、コロナで景気は落ち込んでいるし、経営状況は相変わらず良くないよ。それに新聞離れは相変わらず歯止めがかかんないんだから、うちの社だけの問題じゃないしね。この間、支社長と話したんだけど、編集サイドは一層、紙より、ネットに傾斜する方針らしいよ」
「つまり、細々した地元の記事はさておいて、ローカルな話題の中でも全国発信できる読み応えのある記事を書くってことか」
「そういうこと、まさしく今朝の刀剣の記事とかだよ」
「と言われても、そうそう面白い話は転がっちゃいない。それにネットに力を入れたところで、本当に稼げるのかな」
「全くその通りと思うよ。まあ、我々現場はこれまで通り、地道に取材し出稿することしかできないよ」
 新聞業界を取り巻く環境は厳しい。少子高齢化、若者の活字離れ、ネット社会の進展などが要因とされ、発行部数の減少、広告収入の減収を受け、人員削減、支社局の閉鎖などのリストラが相次ぐ。
「ところで、今年9月に65歳定年なんだ。派遣会社からは秋で契約打ち切りの通知を受けているんだけど」
「えっ、そうなの。江上さんがいなくなったら、足利や隣の佐野市の情報はどうなるの。支社だって相次ぐ人員削減で青息吐息なんだから、この上、リストラじゃ、紙面製作に支障が出ちゃうよ。こっちの身が持たないよ」
「そうだろうけど、正社員も65歳定年だと聞いているし」
「大丈夫だよ、65歳定年は建前で、中には継続雇用のケースもあると聞くし、そのうち、何か打診があるんじゃないかな」
 新聞経営の柱となる読者の購読料と企業などの広告料の減少傾向で、経営陣は勢い支出削減のためのリストラに走るが、現場の記者が減れば当然、紙面は劣化し、引いては部数減、さらに減収と悪循環に陥る。
 江上らの勤務する日本新報も例外ではなく、市町単位の通信部閉鎖、通信部を統括する県庁所在地にある支社局の人員削減を進め、宇都宮支社は記者数7人と既に紙面維持の限界にきている。派遣社員の江上も貴重な戦力の一人になっていた。一方、国は昨年、高年齢者雇用安定法を改正し、70歳までの継続雇用制度導入を打ち出している。
(大手紙だから国の動向には敏感だろし、雇用条件が多少、落ちても……)
 江上は内心、淡い期待を持っている。
                        その2に続く。


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