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小説「歌麿、雪月花に誓う」⑦

 第7話、
「何とも奇妙奇天烈、奇想天外と言いますか、破れ傘が宙を舞っているのですか」
 下野栃木宿の豪商、釜喜の3代目当主、善野喜兵衛が画集を手に、その発想力に感心すると、
「骨傘と書いて、ほねからかさ、という妖怪でして。愛嬌があるじゃろう」
 絵師、鳥山石燕は得意げに解説した。
 天明5(1785)年秋、喜兵衛は上京し、初音の里で知られる根岸の石燕宅を訪れている。
 石燕は前の年、妖怪画集「百器徒然袋」上中下3巻を出版し、江戸の評判をさらっている。妖怪画の第一人者としてこれまで「画面百鬼夜行」「今昔画図続百鬼」「今昔百鬼拾遺」を発行し、当年73歳、妖怪画の集大成である。
「長男の弥太郎さんは歌麿と馬があっているそうで、狂歌仲間と遊び興じていると聞いてます。万事、首尾よく捗っており、結構なことで」
「石燕様のお骨折りのおかげです。蔦屋様にお口利きをして頂き、感謝しきれません。歌麿には少しでも、善野家と馴染んでもらいたい一心でして。これはほんの気持ちということで」
 善兵衛は懐から包みを出し、差し出した。
「これはこれは、いつも、このようなものを頂いては」
「何をおっしゃいます。当然のことで御座います。歌麿が石燕様から受けた御恩を考えれば、ほんの些細なことで」
 善兵衛は深く頭を下げた。
「聞くところによると、蔦屋様は人一倍、歌麿に目を掛けているようで。一人前の絵師に育てばいいのですが」
「御心配には及びますまい。何といっても歌麿には資質がある。人であれ、物であれ、巧みに書き写す技量を身に着けている。何人もの弟子をもってきたが、歌麿は卓越してましたから」
 絵師・石燕の背中を見て育ったからだろう。歌麿は物心ついた頃から筆を持ち、庭の草花、昆虫や鳥などを細密に描き、周囲を驚かせていた。
「ただ、江戸には力のある絵師がたくさん犇めいておりましょう。並みの才能や努力で頭角を現すのは至難というものでは」
「ご推察の通り、一門の絵師になるのは容易じゃありません。だが、歌麿は運がいい。蔦重は新興の版元だが、商売上手で面倒見がいい。なんでも、新機軸の絵本で歌麿を起用し、売り出す腹積もりらしい」
 蔦重はこの年8月、狂歌集「狂歌評判 俳優風」発行に当たり、天明狂歌界の3大家、朱楽菅江、唐衣橘洲、四方赤良らの歴史的和解の仲介役を果たし、3人を選者に据えた。天明狂歌の熱狂に陰りが見え始める中で、版元主導の絵師を起用した絵入り狂歌本を企画していた。そのためにも狂歌界をまとめ掌握することは不可欠だった。 
「北尾重政、勝川春章ら有名な絵師がいる中で、歌麿を使ってもらえるとは有り難い話で。新人を売り出すのは一苦労で御座いましょう。歌麿のためにも、蔦重様を支援させてもらいましょう」
「支援というと」
「入銀物とかいうじゃありませんか」
「よくご存じで。つまり善野様が資金提供するということで」
「まあ、そういうことで。歌麿にとってはまたとない機会ですので」
「版元に取次しましょうか」
「願ってもないことで、蔦重様によろしくお伝えください。歌麿にはくれぐれも内聞に」
 善兵衛の事情を察し、石燕は黙って頷いた。
 
 その頃、日本橋通油町の書肆・耕書堂の奥座敷で、歌麿は眉間に皺を寄せ、蔦重の顔色を窺った。
「旦那、あっしは何も文句があるわけじゃねえんだ。ただ、その」
「ただ、そのって、だから何か不満があるのかいって聞いているんじゃねえか」
 蔦重はこめかみに青筋を立て、苛立ちを露わにした。
 事の発端は蔦重の持ち出した絵入り狂歌本だった。春夏秋冬、江戸名所20カ所余りの挿絵にそれぞれ狂歌を添え、絵本江戸爵3冊組として出版予定という。蔦重注文のその挿絵に歌麿は不満顔を覗かせ、口論となった。
「挿絵が嫌なわけじゃねえし、まして旦那に不服なんぞあるわけねえんで。そこんところは分かってくんな」
「ああ、そうかい、分かったよ。だったら、はっきり言いねえ」
 歌麿は頭を下げ、小声で切り出した。
「へい、じゃ、申し上げます。あっしは、あっしは、その、何時になったら、また女絵をやらせてもらえるんで」
「まあ、顔を上げな。いい機会だ、蟠りがあっちゃいけねえし」
 蔦重は鬢の髪を右手で撫で付け、諭すように話し始めた。
「歌さんが女絵をやりてえのは重々、分かっちゃいるよ」
「それじゃ、何で」
「そう、先を急いじゃいけねえ。まあ、話を聞きな」
 蔦重は3年前、吉原から老舗の地本、書物問屋の集まる日本橋に乗り込んだ。吉原生まれの地の利を生かした吉原外交で戯作者・朋誠堂三二や山東京伝、浮世絵師で北尾重政、勝川春章らとの人脈を築き、定期刊行物の吉原細見を軸に黄表紙、洒落本にも乗り出し、版元として急成長している。
「いずれは日の本一の版元になる。それには時流に乗らなきゃいけねえ。今は絵入り狂歌本で勝負する。そのためにいろいろ手も打って来た」
「それで、あっしに挿絵を」
「歌さんの腕を見込んだから頼んでいる。いい挿絵に仕上げておくれ」
「それじゃ、しばらくは狂歌本の挿絵をやれってことで」
 歌麿は声を沈ませ、表情を曇らせた。
「まだ納得できねえようだな。だがな、急がば回れっていうじゃねえか、地道に筆の腕を磨くんだよ。そのために入銀物の枕絵本を任せたはずだ」
「つまり、あっしにはまだ女絵は無理だと」
「それを私に言わせるつもりかい」
 蔦重の鋭い眼光に射すくめられ、歌麿は言葉に詰まった。願望と焦りが募るばかりで、清長を超える歌麿独自の女絵の姿形は一向に見えない。抗弁しようがなかった。
「版元として、少しでもいい絵本や錦絵を出版し、多くの人に楽しんでもらわなきゃならねえ。それとな、歌さんら絵師や戯作者、それに番頭以下、手代に丁稚、女中連中、そいつらには女房、子供もいる。三度の飯に困らねえようにしてやらねえとな」
 蔦重の一言一言が胸に突き刺さる。
「歌さんよ、私を信じておくれ。悪いようにはしねえつもりだ。機が熟すまで待とうじゃねえか、女絵は」
 蔦重の版元としての気迫に歌麿は圧倒された。
(旦那を信じ、今、与えられた仕事に没頭するしかねえ)
 歌麿の両目に輝きが戻り始めていた。
                         第8話に続く。

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