見出し画像

小説「歌麿、雪月花に誓う」⑩

  最終第10話、
「ところで、これまでの身に余る援助にお返しがしたい。絵師として一本立ちできたのも善野家の皆様のおかげですから」
 歌麿が神妙な面持ちで切り出すと、
「何を言っている、歌麿。これからは歌麿と呼ばせてもらうよ。お返しされるいわれはねえんだ。せめてもの罪滅ぼしなんだから」
 喜兵衛が言下に押し戻した。
「そんなわけにはいかねえ。それじゃ、気持ちがおさまらねえ」
「父の遺言だ。歌麿の面倒を見てやってくれとな」
 2人は一頻りやり合うと押し黙り、座敷は静まり返ってしまった。
「まあまあ、2人とも折角、長年の蟠りが解け、打ち解けたんじゃねえか。意地を張り合っても埒が明かねえ。どうだい、こうしちゃ」
 押し問答を見かねて、釜伊の当主、伊兵衛が仲裁に入った。
「歌麿よ、釜伊のために絵を描いてくれねえか」
「それはどういうことで」
 歌麿は事情が呑み込めず、聞き返した。
「だから絵の注文だ。釜伊の家宝になるような立派な絵を描いてもらいてえ。どうだい、やってくれねえか」
「釜伊の家宝か、なるほど」
 喜兵衛が得心したように、ゆっくり頷いた。
「どうだい、歌麿。絵の注文じゃ、断る理由もねえだろう」
「急な話なんで、驚いちまって。そりゃ、絵師ですから」
「それじゃ、やってくれるのかい」
「家宝とあっちゃ、絵師冥利で。是非やらせてもらいましょう」
「そうかい、それはありがてえ」
「それで、どんな絵を描きゃいいんでしょうか」
「画題かい、そりゃ、歌麿に任せる。金は出すが、口は出さねえ。好きに描いてくれ」
「いい話じゃねえか、歌麿。描きてえものを存分に描いたらいい」
 喜兵衛が目尻に皺を寄せ、伊兵衛の申し出を後押しした。
 思わぬ成り行きに当惑したが、やがて善野家の支援表明と分かった。歌麿は素直に甘え、絵師人生を賭ける絶好の機会と捉えることにした。
「女絵でいかがでしょう。いや、どうしても女絵にしてえ」
「女絵といや、吉原の花魁、女郎を描くつもりかい」
 伊兵衛が喜兵衛に目配せし、言外に懸念と疑問をにじませている。生みの母親を想起させる遊女を描けるのか、と。
 出生の秘密を知って以降、歌麿は五体を流れる血に戦き、女郎、売女を抱いたことはない。だが、絵師として今、女絵に賭けている。清長を凌駕し、超越する女絵を描くには、女絵の主流である遊女で独自の世界を切り開くしかない。
「ゆくゆくは女絵で、日の本一の絵師になる。今回の注文、夢の踏み台にさせてもらえねえだろうか。どうか存分に遊女を描かせてもらいてえ」
 歌麿は両手を畳につき、頭を下げた。
「日の本一の絵師とは、剛毅で頼もしいや。そんなら、花魁1人、2人と言わず、天下の吉原遊郭を華麗に壮大に描いてみねえかい、屏風絵みてえに」
 伊兵衛の思わぬ提案に、歌麿は驚いたように顔を上げた。
「吉原を巨大に屏風絵みてえにですか」
「日の本一の絵師になるんだろう。それなら誰も手掛けたことのねえ大画に挑んじゃどうだい。景気づけだ、画料は餞ってことで弾もうじゃねえか」
「本当にありがてえ話なんだが」
「どうした、なんか浮かねえ顔してるが。乗り気にならねえか」
「いや、そうじゃねえんで、できれば吉原じゃなくて、品川が舞台じゃいけねえかい」
「品川……。遊所といったらお上公認、天下の吉原遊郭じゃねえか」
「そりゃ、そうだが、どうしても品川が描きてえんで」
 歌麿は真剣な眼差しで、伊兵衛に再度、頭を下げた。
「分かった。それじゃ、品川も吉原も描きゃいい。納期はねえんだ。骨休みにやって来た時に描きゃいい」
「えっ、2幅もですか、本当によろしいんで。夢のようで、ありがてえ」
 歌麿が安堵の吐息をつく間もなく、弥太郎が口を挟んだ。
「ちょっと、叔父さん」
「どうした、弥太郎、何か言いたそうだが」
「いやね、文句つけるわけじゃねえんです。でもどうなんです、北の吉原に南の品川を描くんなら、ついでに辰巳の深川も入れて3幅にしたら。三が日に三三九度、それに松竹梅って言うし、2より3のが縁起がいいでしょうが」
「弥太郎、気の利いたことを言うじゃねえか。伊達に江戸で粋人と交わってわけじゃねえな。それじゃ風流に雪、月、花か。粋で乙じゃねえか」
 歌麿は背筋を伸ばして、座敷に入る面々を見渡した。
「江戸3大遊所を雪、月、花、3部作に仕立てましょう」 
                              (了)
                                                                    


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?