見出し画像

小説「或る日の北斎」その7

 浅草寺の鐘が昼八つを知らせている。時は配慮も躊躇もせず過ぎていく。聞き慣れた単調な音色が妙に染み入り、北斎は微かな焦りさえ感じた。
(一世一代の勝負か)
 彼は西与の言葉を反芻し、過去の一事に自嘲した。
 12年前、文化14(1817)年秋のことである。
 尾張名古屋の西本願寺掛所境内には120畳もの厚紙が敷かれ、藁の大筆や棕櫚箒、大桶に溢れんばかりの墨汁が用意されていた。老若男女、集まった黒山の見物客が息を飲む中、襷掛け、袴の裾を高く上げた北斎、門人らが登場。北斎は両手でその大筆を持ち、墨をつけては、鼻、両目、口と描き、大達磨図を描いて見せた。群衆の割れんばかりの喝采に彼は酔いしれ、狙い通り成功裏に収めたことにほくそ笑んだ。
 その3年前、名古屋の版元・永楽屋東四郎の勧めで、北斎漫画を出版。私淑者らに好評で北斎の名を広めるのに一役買ったが、思わぬ陰口が巷に流れた。「あいつは絵師じゃねえ、細工師か」と。大達磨図の試みは絵師の力を見せつけ、あらぬ中傷を払拭する狙いがあった。
 尾張名古屋から88里、意気揚々と江戸に戻った北斎の耳に、今度は輪をかけた罵詈雑言が舞い込んだ。
「なんだと、曲芸師に成り下がっただと」
 弟子・柳々居辰斎りゅうりゅうきょしんさいの注進に、北斎はこめかみに青筋を立て、絶句した。
「その上……」
「なんだ、はっきり言わねえか。その上、何だって抜かしやがるんだ」
「つまり、その、二番煎じじゃねえかって、あの江戸でやった……」
 遡ること20余年前、彼は江戸音羽の護国寺で120畳の大達磨図を披露していた。
「まったく口さがない奴がいるもんで。噂の出元ははっきりしませんが、先生に何か含みを持つ版元か絵師が吹聴してるようで」
「できねえ野郎のひがみだろうよ。どこにも天邪鬼はいるもんだ」
 弟子の手前、北斎は強気のそぶりを見せたが、心中はささくれだった。
 巷に沈殿していた曲芸師の嘲りが名古屋の一件でぶり返し、勢いを増して拡散し始めていた。起死回生を記した一世一代の勝負が裏目続きだったことに呆然自失し、彼の絵師人生に暗い影を投げかけていた。
(錦絵で勝負できねえと)
 以降、筆を止めては、北斎は自身に言い聞かせて来た。
 西与の持ち込んだ富嶽三十六景は人生土壇場で舞い込んだ好機に違いない。挿絵でも絵手本でもない、町絵師の王道は絢爛豪華な錦絵だ。北斎は傍らに散乱する素描を恨めしそうに見回した。
「親父さん、今度は種彦がやってきた。立て続きに来客じゃ、仕事になんねえだろう。どうする、帰らしちまおうか」
 裏路地に出ていたお栄が土間に駆け込み、呼び掛けた。
「種彦じゃ、追い返すわけにもいかねえだろう」
 柳亭種彦は合巻「正本製しょうほんじたて」で評判となり、今を時めく戯作者に数えられる。20年前、読本「近世怪談霜夜星きんせいかいだんしもよのほし」の挿絵を北斎が手掛け、知己を得た。今年45歳と北斎より2回りも年下だが、北斎の夜を日に次ぐ画業への傾倒ぶりに感銘。北斎も、種彦の武士らしく長幼の序を弁え、その戯作に賭ける情熱に共感し、互いの住居を行き来し親交を深める仲になっている。
「先生、ご無沙汰しておりました」
 種彦は平伏した。細面に両目は切れ長で鼻筋は通り、広い額と青々と剃り上げた月代が理知的な印象を与える。
「この間刊行した偽紫田舎源氏にせむらさきいなかげんじが随分、評判らしいな。仙鶴堂の店前は長蛇の列って耳にしたぜ」
「お陰様で。先生の前で失礼ですが、国貞の挿絵も人気のようです。本当は先生に挿絵をお願いしたかったんですが」
「謙遜することはねえ。話の筋立てが面白えから、江戸っ子に受けてるのさ。それに国貞の件は気にすることはねえと言ったはずだ。こっちも忙しくて、頼まれてもできねえ事情があるって」
「そうでしたね。先生がそれ程、入れ込んでいるとは……。一体、どんな絵に取り組んでいらっしゃるんで」
 北斎は種彦から視線を外し、溜息交じりに呟いた。
                        その8、に続く。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?