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作庭私論 「旅の中」 ②

これは 季刊誌 庭 No.183 2008年・平成20年9月1日 建築資料出版社発行で取り上げて頂き、作庭私論のコーナーで書き留めた、自論というよりも自身を組み上げてきた成り立ちのようなものを書き綴ったものです。
それをnoteに分割して引用します。一部固有名詞など隠す場合があります。

 ハガネのような世界

高校。ほとんどの生徒が当然のように進学を志望する何の特色もない、ごく普通の高校でした。
私はなんとなく職人がいいと思っていました。そして1年のとき先生に大工になるにはどうしたらいいかたずねました。
先生は、大工になるにも大学に行ったほうがいいと言われました。
大学と聞いてすぐ考え直し、
「それじゃあ植木屋だ、なんだか独特で、ようすがいい」と決めました。
そして2年の時の修学旅行で奈良と京都に行き、ふてくされながら京都の町を歩いていたのですが、いつの間にかその町全体の美しさというか、雰囲気に呑まれてしまいました。
そしてこの町で植木屋になりたいと決めたのです。

高校3年の秋、どうやって植木屋になったら良いかわからず、何とか紹介していただけないかと思い京都造園組合に一人で訪問しました。
そして紹介していただいたのが久保造園です。

間も無くして当時若親方の久保義信さんが組合まで見えました。
「春からよろしく」そう言っていただいたときの感激は今でもはっきりと覚えています。

それが庭の世界へ一歩踏み込めた瞬間でした。

その時いただいた『庭』No.63《久保篤三の世界》を毎日見ながら、とんでもないことが始まるという希望をムネに京都へ向かいました。

そしていよいよ修業が始まるのですが、何といっても久保篤三親方の世界でした。そのとんでもないド迫力に、毎日ふき飛ばされないようにしがみついているのが精一杯でした。

それにしても久保造園のように、親方、番頭さん、先輩、同期、後輩、そしておかみさんがいらっしゃって、あたたかくも厳しい店で初めに習えたことは、私にとって宝です。

偉大なる親方と、親方の意志をアウンの呼吸で汲み取り、現場で自ら汗をかき、統制を取る番頭さん。そのハガネのような世界で、このナマクラな鉄を叩かれたからこそ今、旅を続けていけるのだと思っています。

その番頭さんによく言われました。

「われのう、雑草のようにならなあかんでよ、踏まれても踏まれても、のう。」

 つづく




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