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「ダイバーシティ diversity」の言葉の使われ方がいびつな気がする

「しまなみ誰そ彼」を全巻読んで、改めてダイバーシティについて考えました。ダイバーシティは、一般社団法人ひとtoペットが掲げる「ダイバーシティ&ヒューマンアニマルボンド(D&HAB)」にも含まれる考え方です。


時代は変わりました。企業アナウンス、テレビや本等でも目にする機会が増え、SDGsにも絡めカラフルな色が好まれている昨今、。「ダイバーシティが…」「多様性ある…」と口にする方を、ちょっと距離を取って見ている私がいます。そもそもの意味を考えます。

ダイバーシティ diversity とは、英語の成り立ちからすると
「di - verse - ity」
diverse は よける、異なるという意味。
異なるということは「あなたは自分と違う」というだけのこと。「自分が多数である」という意味ではないのですよね。

ただ、 日本でダイバーシティ diversity と使われるときには「(自分は多数派である前提で)異なるものを認めてあげましょう」という謎の圧が込められているように、私は受け取っています。

なぜだろうと考えると、

・異なるものと出会う経験が少ない
・異なるものがよくないという締め付けがある

ように思います(あくまでも私見)。

たとえばランドセル。今さまざまな色があります。私が通った小学校では女子児童は赤系以外は使っていなかったです。小学校の規則で決められてたことなのか、世間的にということなのかはわかりませんが、別の学校ではメーカーが異なるだけでいじめられたという方の話を聞きました。

大人になると「そんなことどーでもええやん。ランドセルの色が違おうと勉強できるかには関係ないし」と思いますし、実際今はカラフルなランドセルの世の中なわけですよね。
けれど、そういう価値観がどこから来たかと考えると私達大人かなと。当時は、そのように考える大人が多かったということ。

四半世紀経った今、ランドセルはダイバーシティ diversity のおかげかカラフルになりましたが、そもそもなぜランドセルなの?と首をかしげる私がいます(ここではランドセル業界のお話は横に置きます)

どうもダイバーシティ diversity がいびつな気がします。そもそもの意味の「あなたは自分と違う、だからこそ、違う価値が集まっているのが当然だよね」が前提条件にないことが多いように受けるのです。


以上「しまなみ誰そ彼」を読んで考えたことでした。


(ヘッダー:アートボードと同じ大きさ、白い背景)

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