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ひとの居場所をつくるひとフォーラム参加記録(2015年1月)

2018/12/24青山ブックセンターでひらかれた「いま一緒に生きている冒険」という場に参加しました。

そこでの体験について書きたいのですが、その前にまずは、このイベントに関連のある、2015年の奈良県立図書情報館でのフォーラムの記録を置こうと思います。

とても長い記録です。


「自分の仕事」を考える3日間 番外編
ひとの居場所をつくるひとフォーラム
2015/1/9-12

https://www.livingworld.net/nara2015/



2015年1月5日

西村佳哲さんファシリテートによる「自分の仕事を考える3日間」に、今年ついに参加できることになりました。今週末1/9-12です。遠方(奈良)なので調整は簡単ではなく、それだけにうれしさがぐぐっとこみ上げてきます。この機会を大切に受け取り、しっかりと血肉にしたいと思います。

 昨年から「居場所をつくる」が自分のテーマとしてあり、今年はそれをより広げたい、より深めたいという強い気持ちがあります。「こんな場があったら」を形にするべく、昨年はとにかく突き動かされるように40もの場をつくっていきましたが、そういう行動へ向かわせるわたしの情熱の源泉はどこにあるのか、「ひとの居場所をつくる人」としてのわたしは何を目指しているのか。ゲストの話を聞いたり、他の参加者と話すことで体験を振り返り、今後の仕事づくりの進路を確認できたらと思っています。

また、このフォーラムには【高校生以下の参加者は無料・申し込み不要】で同伴できます。高校生が大人と話す機会はとても貴重ですし、「ひとの居場所をつくる」というテーマにかかわらず、いろんな仕事をしている大人がいることや、彼ら・彼女らがどんな思いをもって現場で取り組んでいるのかを知ることは、将来を考える上で、非常に有益だと思います。

直前のアナウンスですが、もしも高校生や中学生のお子さんを同伴させたいという方がいらしたら、わたしまでご連絡ください。会場への同行や開催中のケアなどできる範囲でさせていただきます。(...という方はとても限られると思いますが、必要としてる方に届けば...)

 

  

2015年1月9日

フォーラム「自分の仕事を考える3日間~ひとの居場所をつくるひと」に参加するため、奈良に向かっています。これまでの道程を思い、徒然と書いてみます。

家と会社の往復で、これといって趣味もなく、夫がいれば友だちは要らないと、引きこもっていたつい6年前までの自分を思い返すと、今のわたしとはまるで別人。変化の大きさに驚くことしばしばです。「人と人とが"アート"を通じて表現しあい、分かち合い、受け取りあう交流とつながりの場をつくりたい」、今はそう考えています。

2013年の5月に燃え尽きで体調を崩してから、セーフティネットの必要性をひしひしと感じてきました。家と会社以外の第三の場所によって救われることがある。最後の最後は人と人とのつながりが自分を助ける。わたしにとって必要な場は、誰かにとっても必要な場であるはず。どんなに元気そうに見えても、どんな悩みを抱えているかわからない。安心して自分を表現できる場をつくることで、人と人とが深いところで共感しあえたり、寄り添いあえたら。そんな思いで場をつくってきました。わたしがつくる場が、目の前の人にとって、目には見えないなにかのきっかけになれたら。

わたしが関心があるのは、アート、芸術、美術、音楽。そこには人が根源的に欲しているものがある。その謎をみんなで探求してみたい。そのことを通じて、分かち合いたい。つながりをもちたい。これは遊びではなく、趣味でもなく、ライフワークなんだとあらためておもいます。

1年半かかって、いや、6年?38年?かかって、ようやくここまで来ました。わたしに出会ってくれたたくさんの人たちのおかげです。

1年半前は、起き上がれず、家から歩いて30秒のコンビニに行くことすらできなかった。午前中に起きることも、ごはんをつくることもできなかった。毎日生きているだけで精一杯だった。

声をかけてくれて、手を貸してくれて、一緒にいてくれて、頼らせてくれて、愛してくれて、本当にありがとうございます。

この年末から息子と二人の生活をはじめました。人生の大きな転機に、揺れることも落ち込むこともあります。きっとこれからもたくさんお世話になります。泣き言を言って頼ると思いますが、逆にわたしができることで役に立ちたいです。

仕事をつくること、子育てのこと、生活のこと、
不安なことはたくさんありますが、自分の選択を信じてやっていきたいです。

皆さんの顔を思い浮かべながら、一緒に生きていきたいと思っています。

なんだかうまくまとまりませんが、
これからもどうぞよろしくお願いします。

 

2015年1月10日

きょうの「ひとの居場所をつくるひと」フォーラムDay2は、9:00-19:00でぎっしり濃かった!参加者も250名に増えた。

2010年ごろ。「わたしのはたらきは、目の前のその人個人に1ミリでも影響を与えただろうか」と考えはじめた。育休から復帰して、わたしの関心は次第に人に向かっていった。また、はたらきと給料の関係についても考えるようになった。果たしてわたしは本当にこの仕事で対価を得たいのだろうか。最初は小さな違和感だった。そんなことを思い出した。

 

きのう(Day1)からきょう(Day2)にかけて気になった言葉のメモ。

・公(public), 共(common), 私(private)と3つのエリアがある。日本は公共とひとまとめにされている。公と私の間にある「共」は、今、確かに必要とされている。しかしその空間・領域を使うトレーニングがなされていない。いざそれが必要になったときに取り扱い方が「子どもっぽく」なる。(つながろう、絆...とか)
・自分たちの生きていく空間を自分たちの責任でつくり、管理し、運営していい。
・働き方、暮らし方は「営み」という言葉に集約される。
・「する」「される」の制約を外れたところにあるものとは。
例えばインタビューとインタビュアーが「インタビューする」「インタビューされる」という関係で始まって、「きょうは聞かせていただいてありがとうございました」「きょうは聞いていただいてありがとうございます」と言うのは普通のインタビュー。それを超えて、終わった瞬間、二人同時に「きょうはよかった!」と思わず口にするような、お互いがそこに一緒にいる状態や感覚。別々の存在がひとつの大きな有機的なつながりになったとき、何が起こっているのか。
・有機的なつながりのある小さな自治の単位をこの世界の隅々につくってゆく。
・文化が趣味、娯楽レベルに留まっていて、教育、福祉に展開できるものになっていない。文化は経済を生む力がある。
・個人で付き合わないと何も始まらない。役割と役割ではなく、人と人としての関わり合い。
・まちに期待を持って暮らしたい。
・商品、消費の対象ではない。宿泊サービスではない。(するーされるの関係を超えて)
・消費とは与えられた範囲の自由であり、選んでいるようで実は選んでいない。選択肢の中から最もいい条件のものを見つけ出す能力、毎日がそれの反復練習のようだ。賢い買い物をしないとダメという強迫観念。
・原因を治療に変えていく。個人の課題は個人のものであると同時に、深めていけば社会や時代の課題や病である。
・自己証明のためにやっているのでないなら、それが自然ということ。
・「自分は何をしてきたか?」何が起こったかは言えるけど。「自分の意思で何かをやったのではない」という人生における態度。
・「条件を満たしてからやっと手に入れられる」は本当か?そのときを待つのではなくとにかく動け。
・自分がいいと思っていることは、他に人にとってもいいのでは(お節介だけど。。)。もし自分と違う人がいてもそれを議論できる場をつくりたい。
・やったことのないことをやる、見たことのないものをやるって大変だけど、その大変なことを陽のエネルギーに変えていきたい。
・魅力的なところにしか人は来ないから、自分がフレッシュであること、常に新鮮な人が周りにいる状態が大事。イキイキ生きるために努力している。正解を目指すのではなく、よりよく生きる。



2015年1月11日

一人で奈良に来て、一人でホテルに泊まって「ひとの居場所をつくるひと」フォーラムに通うこの数日がすごく非日常だなぁ...と思ってからハッと気づく。わたしは東京の日常をすっかり塗り替えたまま置いてきていて、それはまだはじまっていないのだった。大きな行動をした後だから余計に宙ぶらりんな気持ち。帰るべき場所がまだしっかりとできていないような、動く歩道を歩いてきて降りたときに、おっととってフラフラ、グラグラするあの感じ。不安、不安、不安でいっぱい。

***

 「自分の仕事を考える3日間〜ひとの居場所をつくるひと フォーラム」Day3。9:30-19:30。きょうもたくさんのインプット。

西村さんがゲストにいくつか質問をして、返ってきたものを並べて、「今何を聴いているところなのか」道筋を見せてくれる。中にはどうして今この質問をしているのだろう?と思うものもあるけど、少し経つと「なるほど、これを聴こうとしていたのだな」というのがなんとなくわかる。

参加者は、わかっているだけで、関西はもちろん、青森、宮城、東京、神奈川、徳島、香川、沖縄...etc..全国から来ている。短いシェアの時間でも話をしているとそれぞれの人の人生が透けて見える。「2008年に」とか具体的な時間を出されると、「ああ、そのころわたしはこうだったな」と思い出す。わたしが生きていたあの時間、過ぎてきたあの時、この人たちもそれぞれに生きていて、そしていろんなきっかけがあって今日この場に集まって、そして今、わたしと話してくれているんだなという、なにか大きなうねりの中の小さな存在としてのわたし、わたしたちを感じる。

本質に辿りつきたいと多くの人が願っているとみえて、時間が経つごとに、ゲストの人数が重なるごとに、大人数でもぐっと深まっていく。このエネルギー値の高さはすごい。

きょうの気になった言葉たち

・小さなころにどんな遊びをしていたか思い返してみると、今に通じることをしていることに気づく。
・自分たちが経験し、体現していることが商品になる。「モノ」を作っているのではない。体現する人が何人になったか。「コト」を挟まないと。数字とモノだけの経済はとても疲れてしまい、続かない。
・中の人の心地よさを大事にしながら、外の変化についていくには。安定には、変化し続けているから安定することと、変化せずに続けていく安定と2つあるのではないか。
・日常に非日常な感情や発想はないのだろうか?日常に笑えず非日常に笑えるーーそんな時間の使い方はもったいないと思う。
・何かをはじめる前には必ず、何かから全速力で逃げている。動物として立ち向かうよりも逃げることの方が自然なことだと思う。
・人からいろいろ言われることがあったとしても、誰かにきれいに説明することを目標に生きてるわけじゃないんだから、自分自信が納得していればそれでいい。
・自己肯定感を持つためには、失敗したとしても、助けてくれたり慕ってくれる仲間がいる、と思えることがとても大事。親との関係、自分が自分を肯定する、はよく言われるけど、そうでなくて「仲間」。親のことを言われたら子どもからは何もできないんだから絶望的。だからそうではなくて、その子がなんらかの形で社会とつながっていれば、親や自分との関係がこんがらがっていても仲間がいれば光になる。自分はその仲間になりたい。
・「これをするとこんな子が育つ」「こんな社会をつくるため」と言わない、言えない。「どうなるかわからないけど、なにか面白いことになるんじゃないか」を大事に。
・遊び、暮らし、季節。その中での関わり。大人がこどもから奪ったものをどうやって返すか。
・かつて関わった人とつながり続けようとしている。(メール、手紙、年賀状、電話、会う、食事、風呂、眠る)
・ずっと一緒にはいられないけど、会いたいと思ったときに連絡してもらえるような存在であり続けること。
・ひとの居場所をつくる、まず、自分が安心でき快適な状態にしようとする。そのあと、そこにいる人が安心できているか、快適な状態かどうかに興味をもつ。
・関わっているとは...?
 -僕が相手に触れているという実感がある。
 -相手が僕に触れられているという実感があるだろうなぁと僕が実感している
・目標を設定しない。起こるべき結果を約束してしまうと自分たちがロックされてしまう。
・お金じゃない世界の実体験を増やさない限り、お金で買えるものに囲まれていれば「結局お金なんだ」という感想しか子どもからは出てこない。「作ろう」なのか「買えばいいじゃん」かに表れる。
・引き寄せの法則?ちゃうね。妬んだだけやもん。
・ただ一緒にいた、ただ生きるということを一緒にしただけ、ということをすると数日でも絆ができる。(逆にただ一緒にいたということができないと10年かかっても絆はできない。
・「話す」ことが成立するためには、先に「話したくなる」ようななにものかがあるはず。それを場と呼ぶのか、具体的にいえば、人。
・喋っていると息ができなくなるような相手もいる。声も小ちゃくなってしまう。そんな相手からは全力疾走で逃げなあかんのに、我々はけっこう「仕事だから」とか「勉強だから」とか「夫だから」とか、そういうことで一所懸命居続けてしまう。
・人っていなくなったら急に「いる」ようになる。そしているのに「いない」こともある。
・見捨てられた人たちの中に、ただひとつ「真剣さ」という武器だけが残っている。
・ある関係性の中では、会社員時代の愚痴なんかでてこない。「生きてる環境」が変われば自分が変わる。成長とか自己実現とか気づきを深めるとか自分を知るとかそんなことじゃない。
・人間が「ほんとうに話しているとき」は、ゆっくりと重いものが間を挟みながら上がってくる。
・自分が何か言いたいから聴いている。ほんとうに聴いてはいない。
・自分のことでいっぱいいっぱいなのに人の話を聞けないときは「ごめん、今は聞けない」。聴いてもらっても聴いてもらえていない感じがするときには、「ごめん、今は聴いてもらわないほうがいいみたい」と言う。誠実でありたい。
・本質に急速に入っていくことをなぜ怖れる?
・語り部たちはなぜ戦争体験を語るのか。自分だけが生き残ったから。亡くなった人のためで、話を聴いてない高校生のためじゃない。語り部たちは「自分たちが聴いてもらった感じ」を持ったことがない。そのことに憤りを覚える。じゃあ彼らが何百回も続けてきたあれらの場はいったい何だったのか。
・「わかりますよ」「まずYes!って言います」とかじゃない、僕のまるごとにお辞儀をしてくれたあのときの感じは体の中に残っている。僕の中に何を認めてくれたのか。今でもわからない。
・相手が話している途中に、自分の中で沸き起こってくるものがありながら聴いている。大好きで大事な相手だから、しゃべり終わるまで待ちたい。まだ文章は終わっていない。取りこぼしたかどうかは、言い終わるまでわからない。呼吸(余韻)が終わるまではわからない。
・重いのかもしれないけど。重い力と書いて動くと読む。
・大阪湾でブイにつかまって浮いている。今なら灯のともる港へ戻れるというのに、どうしても暗い沖の方へ行きたい。でもそっちへ行っていい。港に戻るのは違和感があるなら、時間はないんだから。


2015年1月12日

Day 4-the final 「ひとの居場所をつくるひとフォーラム」が終わりました。総括があるわけでも、一人ひとりの宣言があるわけでもなく、はじまったときと同じように、ごく自然の流れの中で終わっていきました。お仕舞い。

たくさんの物語や思いを聞き語った4日間。今なにが起こっているのか全身で感じようとした。今わからないことはそのままでいい。ゲストの8名だってどこかに行き着いてるわけじゃない。みんながどこかに向かう旅の途中。いくつかの約束ができた人とも、そうでなかったほとんどの人とも、またどこかで会えることを楽しみに。ご一緒できて、同じ時間を共にできて、うれしかったです。ありがとうございます。


 「ひとの居場所づくり」という言葉から福祉的課題を連想する人がいると思いますが、これは社会的弱者と目される人々だけのテーマではないと思います。さらに言えば仕事とは、なんらかの形で「ひとの居場所をつくり出すこと」ではないでしょうか。ひとがこの世界に"いる"ことを支えること。空間や場づくりに限らず、たとえば一杯のお茶を供するような動きも含めて。(「ごあいさつ」より/西村佳哲)

 

これをやってこうする、これをやったらこうなる、みたいなことはまだ見えていない。だけども、ともかく「今、夢中でやっていることを続ける」と「親が楽しければ、こどもも楽しい」を胸に。

Small is beautiful.

小さいからこそ、できることがある。



2015年1月15日

きょう誕生日を迎えました。たくさんのメッセージが思いがけなくて、うれしかったです。ありがとうございます。

今朝息子がいきなり、「2歳とか3歳とか4歳のKはどこにいったと思う?おかあとかおとうとかおばあちゃんとかおじいちゃんの心の中にいるんだよ」と言ってました。
うん、ほんとうにそうだな。

わたしもこうやってだれかの心の中に置いてもらってるんだな。ずっと前からの友だちも、つい最近知り合った方も、わたしに出会ってくれてありがとう。

奈良の「ひとの居場所をつくるひと フォーラム」では、わたしはどのようにじぶんと、ひとと接してる、関わってる、向き合ってきたのだろうか、わたしはどうありたいのだろうか、ということをたくさんたくさん考えました。終わっていく関係、続いていく関係、変化していく関係...。

「わたしとあなた」のあいだにしか起こりえないもの、ことを大切にしていきたいと思います。

 

  

ビデオアーカイブサイトがあります。

全ゲストのセッションが10分ずつのダイジェストで公開されています。
場の雰囲気が少し感じられると思います。http://www.workshopstudio.net/hitonoibasho/