子どもの訴え

先日、映画『プリズン・サークル』を観た。
感想を書いてから後も、書き足りなかった思いが次々とわいてくる。

受刑者たちの語りから、子どもの頃に受けた虐待、いじめ、差別などの暴力、貧困の記憶が出てくる。
彼らが向き合っているのは犯した罪だけではなく、自分の苦しみの根源だ。罪と根源のあいだを行き来しながら、共に取り組む仲間との語りあいを通して、苦しみを言葉にしながら、ようやく犯した罪とその償いについて考えてゆくことができている。


家庭内で起こる、親から子への暴力言動。

子どもにしてみれば、自分自身の辛さはもちろんあるものの、「親が悪いので懲らしめてほしい」とは思っていない。
「わたしをこの苦しい状況から助け出してほしい」ということと、「親がものすごくしんどそうで、こんな言動に出てしまっているので、誰かなんとかしてほしい」ということを訴えているように思う。

野田の事件で、亡くなった女の子が「先生なんとかできませんか」とアンケートに書いていたことを思い出す。

かつて子どもとして親と暮らしていた自分と、親になって我が子と暮らしている自分の、その両方の自分としてつくづく感じるのは、子どもってほんとうに優しくて、いつだって親の味方だし、なんとか助けてあげたいと思っている、ということだ。

親への恨みを親に対して晴らす方向性ももちろんあるけれども、そうはできなくて自分に向かったり、外へ向かったりしてしまう。
それほどまでに親との関係は特別なものだ。

どんな親であれ。


でも子どもは、その人の子として存在している以上のことは、ほんとうは何もできないのだと思う。
親を助けるのは親自身と、そして周りの人、社会。

親の苦しみを見よう、家庭を開こう、第三者の介入が必要...。
そういう認識が、ようやくこの社会にできてきたよ、
ということを、あの頃のわたしに教えに行ってあげたい。