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なぜ日本人が鶴を折るようになったのか

日本の伝統工芸の一つである「折り紙」は、今では世界中で親しまれるようになり「origami」として定着しつつありますが、その定番といえば「折り鶴」です。なぜ、折り鶴がそれほど広まった理由が知りたくて調べてみました。

鶴を食べる?

「どうして」かを調べていて辿り着いた結論は、チコちゃん流に言えば「それは庶民も鶴を食べたかったから」ということでした。

酪農学園大学の久井貴世、赤坂猛らの論文によれば、古来から「鶴は齢(よわい)千年を保つ霊鳥・瑞鳥」されていて、室町時代以前は、鶴は保護の対象だったので、鳥肉と言えば雉が良しとされていたようです。

江戸時代 の権力者は,鷹狩の獲物を確保する目的で,鶴や白鳥などの保護を図っていた。鷹狩などで将軍自らが 得た獲物が,皇族や家臣との結びつきを強めるための重要な道具として用いられた。そのため権力者は, 鶴や白鳥などの狩猟鳥を大切に保護していたのである。特に,将軍の鷹で獲った鶴は「御鷹の鶴」や「献 上の鶴」などと呼ばれ,年始に宮中(天皇の御所) へ進上された。宮中へ鶴を進上するようになったのは 1587(天正 15)年の豊臣秀吉が始まりだが,開幕以前の 1598(慶長3)年には徳川家康が天皇家へ「鷹之鶴」を進上し,1612(慶長 17)年からは徳川幕府 の恒例行事としても続けられてきた。そのため鶴は,上流社会の人々の鳥とされ,豊臣秀吉が,鶴を捕獲した者を磔の刑に処したという例などがあることから,庶民が鶴を捕獲する事は極刑であると広く知られていた。しかし鶴などの禁鳥の捕獲を禁じる 禁条が定められたのは 1742(寛保2)年の『公事方 御定書』以降であり,それ以前の刑罰は「非法の刑」 であるとされる。ただし一方では,盛岡藩のように,城へ献納することを条件に,運上金を取って鶴や白鳥の捕獲を認めていた藩もある。

つまり、室町時代に権力者たちのご馳走であった「鶴」は江戸時代になって数が少なくなったのか、なかなか獲れない年もあり「雁もどき」のように、「鶴もどき」という羹(あつもの)として作られていたことが、上戸 彩主演の料理時代劇映画「武士の献立」でも登場したようです。

文献にもあるように、正月17日に宮中で行われていた〝包丁式〟に、豊臣秀吉が鶴を献上してから〝鶴包丁〟と呼ばれるようになるなど、無病息災を願い「鶴」あるいは「鶴もどき」を食べることは、口にすることのない雲上人の食への庶民の羨望が込められていたのかも知れません。

折り鶴の登場

そこで庶民が思いついたのが、鶴を食べる代わりに、「鶴を折る」ことで無病息災を願うようになったというわけです。

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それまでにも日本では平安時代から「紙」を折ることは伝統的にやられていましたが、これは紙が「神」に通ずるという意味合いがあったこと、さらに「鶴は千年、亀は万年」という慣用句があるように長寿を象徴する鳥として、日本では古くから「鶴は縁起の良い鳥」とされていたことから、お祝いや病気見舞いなどで盛んに「折り鶴」が折られるようになったと思われます。

そして、「鶴は千年」という言葉から折り鶴を千羽作って糸で通したものを千羽鶴とし、そこに長寿祈願・幸福祈願・災害祈願・病気快癒などの意味が込められて、今では平和のシンボルとして作られるようになりました。

江戸時代には「秘伝千羽鶴折形」という本も出版されていたようなので、ぜひそれらの現代版を手に入れて、連鶴などたくさんの種類の「折り鶴」を折ってみたいものです。

東京と石垣島との2拠点居住を始めて20年になります。それぞれの土地と情報との中で人生を豊かにする暮らし方「スマートライフ」を実現しようと試行錯誤しています。それぞれの場所で日常の中に見つけた「暮らし」を発信しようと思います。