『善とフェミニズムは、なぜ両立しないのか(2)』2022-07-21
(前回の続き)
なぜなら大抵の道徳律は「このルールは公正に適用されなければならない」を暗黙の前提にしているからだ。公正とは、人類皆平等とまではいかなくとも特別な理由がないかぎりは誰にでも公平に、そしていつもその通りにせよということだ。でなければルールとしても道徳としても認めがたい。
「神を信じなさい、ただし都合が良い時だけ」という宗教はないし、「気分次第で殺すべきだったり殺すなかれだったり」という法もないのだ。
いま筆者は、公正という曖昧な言葉を便宜的に、「公平」と「いつもその通りに」という言葉に分解した。
「公平」とは、いわば対人的な一貫性だ。誰に対応する時にもその対処を一貫させるということ。「いつもその通りに」とは、そのまんまだが時間的な一貫性である。
「いつでも、誰にでもそのその通りに」適用するルールを模索するための極限的な営みを科学と呼ぶ。現代の科学に比べれば非常に原始的な形ではあっても、男性の労働の多くはこのルールを何とかして探り出そうとする足掻きであった。自然との闘いだったからだ。暴れるマンモスや、冬の寒さや、大洪水に対処するにはそうするしかなかった。
自然との闘いでは、自然の動きからルールを見つけ出し、あまりにも強大な自然と戦うための戦力を確保するために、出来るだけ多くの仲間を包摂する必要があった。それができるのが男社会のリーダーの資質であった。
あくまで伝説によればだが、中国では水利事業の指揮に実力を発揮したリーダーが王になったという。
図式的に言っているので伝統的な男性社会をユートピアのように表現してしまっているが、もちろん様々な副作用はありながら、とにかく「一貫性」と「包摂」が男性社会の隠れたルールだったのだ。
では、「マンモス・土器社会」のうち土器の方――女性グループの中では、一貫性と包摂にこだわることはどんな結果を生むだろうか。
まず、女性達の決定はあくまで当人たちの感情に基づく権力関係にしか保証されていない。女性達の生存手段は、自然との闘いで検証されるわけではないのだ。
ここで「一貫性」と「包摂」が必要ないのだということに着目しよう。
マンモスを狩り大河を治める男達の仕事では、リーダーの決定は常に「自然」という厳格な裁定者の審判を受ける。リーダーが誤っていれば仲間は巨獣に踏み殺され、村は洪水に呑まれるだろう。
一方、女性の社会では、その場の強者に「共感」することが重要だ。
その意思決定は外的な「結果」にはあまり影響しない。誰がボスになって誰がイジメられるかで完結し、だからどうなるというわけでもない、閉じた意思決定である。
強者といっても男性社会における仕事上のリーダーとは異なり、進化がもたらした弱者嫌悪をもてあまし、そこから発生するイジメをもてあそぶだけの存在である。
女性社会には集団内強者の暴走に「悪い結果」をもたらして牽制してくれるマンモスはいないのだ。
一貫性の必要はない。
むしろ女性の世界では一貫性は有害だ。権力者の凋落が起きたとき、乗り換えを阻害するからである。
「共感」は、その時その場のものだけで充分だ。グループ内の強者女性(現代なら「ボスママ」とか「お局」とか「スクールカースト上位」になるような女性)が凋落すれば、すぐに新しいグループ内権力者に乗り換えることこそが最適解だ。
カーストを転落したかつてのボス女、つまり今現在は嫌われハブられイジメられている女といつまでも友達でいては、自分もまた被害を受けることになるからだ。
一貫性などにこだわらないのが女性にとっての正解だ。
また弱者嫌悪もできるだけ反射的に発生するのがよい。
自分の言葉や態度に一貫性を持たず、パワーバランスが変化すればすぐに乗り換え、そこに一切の罪悪感や矛盾を感じない。ただひたすらに、その場その時の強者に追従する――これが女性社会に最も適応した女性なのである。
まったく、今現在のフェミニストの行動と同じである。
インフルエンサーが言えば一瞬で迎合し、自分の信念は一切ないため抗議理由はクレームのたびに矛盾し、失敗すればツイート削除して「自分達はそんなことしていない!」と嘘を言い張る。
その行動パターンの起源がここにある。
大昔の社会に文字が無かったことは、極めて重要である。
あっても女性の「誰々がボスで誰々をイジめ、そのうちボスが失脚して誰々グループにイジメられるようになりました」なんてことは長らく記録の対象ではなかった。
「こないだまで、お前もアイツの腰巾着だったよな?」ということの証拠は極めて残りづらかったのである。
裏切りのリスクは非常に小さかった。
現代のネット社会ではすべてが文字や動画で残ってしまうため、フェミニスト達が主張する「女性のお気持ち」はその無定見ぶりをどんどん暴かれて信用を落としている。
これはちょうど、生き残るため糖分や脂肪を積極的に摂取するように発達した味覚が、現代では成人病の原因になってしまうのと同じである。その行動パターンが発達してきた時代と、現代では事情が違うことによって生まれた悲劇なのだ。
女性グループの中での「弱者」とは、体が弱い人とか貧しい人という意味ではない。グループの中で「嫌われている人」「孤立している人」だ。そのような人に「共感」したり支援することは、むしろ自分も集団から疎まれる危険がある。
むしろ「弱者」を積極的に憎悪する、進化の過程で培われたメスの心性、【負の性欲】こそが、多数の女性・上位の女性の歓心を買うことができるのだ。
そのため女性の世界ではオス選びだけではなく、女性同士からの仲間選びにおいても、弱者憎悪が適応戦略となっているのだ。
この弱者に対する酷薄ぶりは、フェミニストが自分に都合の悪い意見を持つ「当事者の弱者女性」に対して日常的に発揮されている。
そしてこれらの女性的性質を強固に守る精神的防衛法が弱者を「認知しない」、変節の「記憶を改竄する」という、我々がしょっちゅう遭遇しているあれである。
これもまた、差別と変節を適応戦略としている女性という性別が、罪悪感や認知的不協和によって足を引っ張られないために作り上げた一種の「本能」なのだ。
ここに至って、
・弱者憎悪
・一貫性無視
・歴史修正
の、フェミニズム3大醜悪が出そろうことになる。
フェミニズムによる「悪性の濃縮化」
ここまで読んだ読者には、次のような疑問が湧いた方もおられると思う。
「そうはいっても、ここまでお前が書いてきたことはフェミニズムの悪性というより、女性そのものの悪性じゃないか。それじゃただの女性差別じゃないのか?」
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