![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/76045434/rectangle_large_type_2_bdba2288a75b166d1c6e465fc9a6e29f.jpeg?width=800)
『治部れんげ(@rengejibu)”月曜日のたわわ広告の問題点”の問題点』2022-04-09
2022年4月4日に日本経済新聞に出された『月曜日のたわわ』第4巻の全面広告への「炎上」がまだ続いている。
![](https://assets.st-note.com/img/1649459928691-mumhFPKCk5.jpg?width=800)
正確には最近よくあるパターン、炎上させようとした側が圧倒的多数の良識派から反論を浴びて「逆炎上」してしまっているというパターンだ。
すでにセンサイクロペディア記事で述べたように、この広告へのフェミニスト達のバッシングは徹頭徹尾、言い掛かりであった。
そもそも図像そのものが、宣伝している漫画の主人公である「アイちゃん」がいわゆる見返り美人的な立ち方で微笑んでいるだけという、極めて穏当なものである。
現に朝日新聞や左派系の人物達の著書などでもこれとそっくりな構図が使われている。
朝日新聞朝刊に「すずめの戸締まり」
— HAL (@ABin9000) April 8, 2022
全面広告!(*^.^*)
すずめちゃんのビジュアル、そして公開日も!!#新海誠#すずめの戸締まり pic.twitter.com/9oViuTzaxr
![](https://assets.st-note.com/img/1649477282196-lnsDIW5r9w.png?width=800)
こんなものをバッシングするのは余りに無理筋だ。
その状況をなんとか糊塗するために、キャンセルの味方、ポリコレの味方である『ハフィントンポスト』が投入したのが、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院の治部れんげ准教授である。
それがこの記事だ。
彼女は、たわわ広告には3つの問題点があるという。
ではそれはどういうものか、批判的に見ていくこととしよう。
1.「見たくない権利」の誤謬
1つ目は、あらゆる属性の人が読む最大手の経済新聞に掲載されたことで、「見たくない人」にも情報が届いたことだ。
「読みたい人がヤングマガジンを手に取って読むことは、今回の問題ではありません。それよりも、女性や性的な描写のある漫画を好まない男性が『見たくない表現に触れない権利』をメディアが守れなかったことが問題です」
ネット上では、はからずも「見たくない表現」に日経新聞の朝刊で出合ってしまった読者が、購読の解約を表明する動きも出ている。治部准教授は「広告によって与えられた媒体のイメージはすぐには払拭できません。どのような広告を載せるかは、メディアにとってのリスクにもつながります」と話す。
このような批判が間違っている理由は2つある。
まず、日本経済新聞を買ってこの広告を読んだ人は、それに対する合意があったということだ。
もちろん、明日の新聞にどんなニュースが載っているか、どんな広告が載っているか、読者が最初から正確に知っていることはありえない。知っていればそもそも新聞を読む必要はなく、自分で勝手に未来予知していれば済むことである。
また常識的に考えても不快な情報は新聞に載りうることは当たり前である。それはひいきの野球チームが惨敗したニュースかもしれないし、自分が昨日ネットでバッシングした犯罪被疑者が無実だったという報道かもしれない。科学的にいかにも胡散臭い健康食品やガン治療法の広告だって普通に載っているし、それらの「信者」にとっては逆に、こうした疑似科学的医療に警告をする記事があれば不快だろう。
その上で、日本経済新聞の編集部がどのようなニュース・広告を掲載するか選定するというシステムと、掲載情報がすべて自分にとって快いとは限らないという前提を、全ての読者は承知の上で、新聞を購読しているわけである。
それはこの広告を紹介したコミックナタリーの記事ツイートにも言える。
ツイッターに登録して誰かをフォローし、あるいは興味のある分野にチェックする。そうすればフォローした人の発言やリツイート、興味ある分野からツイッターのシステムが選んだ情報が流れてくる――そういう情報が流れてくる仕組みそのものを総合的に了承した上で、我々はツイッターをしているのである。
誰もが合意の上で、広告を見たのである。
そもそも治部氏は記事の中でうっかりこう口をすべらせている。
「読みたい人がヤングマガジンを手に取って読むことは、今回の問題ではありません。(後略)
いやいや、ヤングマガジンの読者にだって『喧嘩稼業』や『ザ・ファブル』のようなアウトローが喧嘩しているような漫画が好きなだけで、たわわや『女子校のこひー先生』には興味ない人だって普通にいるはずではないか。逆もまた然りである。
一体、彼らはどうしているのだろうか?
もちろん、目に入ったら「自分には興味のないやつだ」と思ってページをめくり『喧嘩稼業』なり『ザ・ファブル』を探すのである。それだけの話であって、誰もがやっていることである。
![](https://assets.st-note.com/img/1649468893921-AU90H5U7qR.png)
しかしそれは日本経済新聞でたわわ広告が出てきたとき、興味が無ければ紙面をめくって次に行くのとまったく同じなのだ。
治部氏だってそんなことは分かっているはずだ。
単に現在フェミニストにとって「負けたくない戦い」であるたわわ叩きを擁護するため、心にもないルールを日経新聞に適用しただけなのだ。
迂闊にも治部先生は、それをうっかり忘れてヤンマガの話をしてしまったわけである。
もう一つ、この治部先生の理論には致命的な手落ちがある。
それは、フェミニストにとって「見たくない表現」と「憎んでいる表現」は同じではないということだ。
たわわ広告は後者であって、前者ではないのだ。
なぜそれが分かるかというと、フェミニスト達自身が「見たくない表現」であるはずの広告画像を、さらには漫画の中の広告よりずっとエッチなシーンさえも、平気でツイッターで拡散しまくっているからである。
![](https://assets.st-note.com/img/1649469047421-rW8kRNK4uf.png?width=800)
![](https://assets.st-note.com/img/1649469571575-eDDmmDECGm.png)
つまりフェミニストは、実際にはたわわを「見たくない表現」と認知していないか、もしくは見たくない表現を他人(未成年を含む。ツイッターは未成年が使用可能なSNSである)に見せることには、問題ないと認識していることになる。
2.「ステレオタイプにお墨付き」の誤謬
ライター業、連絡はDMでどうぞ。匿名・別名義での依頼も相談に乗ります。 一般コラム・ブログ・映画等レビュー・特撮好き。