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【殿様と葉っぱの話】

 東京工芸大学マンガ学科教授の伊藤剛氏が、表現規制の際限のなさの喩えに用いた小咄。同氏の記憶によると九州地方(おそらく熊本か大分とのこと)に伝わる話らしい。
 2019年2月にツイッター上で『マンガ論争』編集長の永山薫氏がツイッター上で紹介し、知られるようになった。

 元の伊藤氏の話は2007年5月19日「同人誌と表現を考えるシンポジウム」の対談での会話であったらしい。

伊藤剛さん(マンガ評論家/武蔵野美術大学芸術文化学科講師) 僕も新聞の取材とかを受けると、同じ質問を記者さんからされたりします。結論をいうと、表現がやせてしまいますと、ある種の豊かさというのが失われますよと、そしてそれは誰の利益にもなりません──という風にお答えしています。

 例え話でいうのは、昔の小咄(こばなし)で、殿様が家来に、菊の花の一番下の葉っぱをむしっておけといって外に出て行く。で、帰ってくると葉っぱが全部むしられていて、花しか残っていない。なんだこれはといって殿様が怒るとですね、「一番下の葉をむしったところまだ一番下があります、それをむしるとまだ一番下があります……」と。それで結局丸坊主になってしまった。規制をしたいという欲望(と言っていいと思いますが)には何かしらの歯止めがないとこうなってしまいますよ、という例え話として出しています。

ITmediaNEWS記事より

 このような限りのない排除への危惧を、規制派は常に杞憂呼ばわりしたがるものである。
 しかし本当に杞憂かどうかは【君野イマ・君野ミライ】の「身長158㎝という表記が気に入らない」だとか、【Tabio靴下屋】の公式ツイッターアカウントが自身の奥さんを「嫁」と呼んだだけで炎上させられた、などなどの2020年現在の状況を見れば一目瞭然である。

 表現への規制要求には、限りがない――それは本当のことである。

参考リンク・資料:

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