[読書メモ]『不実な美女か貞淑な醜女』(米原万里)

p18
私がまだ駆け出しの通訳だった頃、すなわち自分で勝手に通訳だと名乗ってもお客さんが次々に雇ってくださらなくては職業として成立しないのだとしみじみと実感していた頃

p25
大げさにいえば、人間のすることすべて、人間が関わり、そこに異なる言語間のコミュニケーションのあるところはすべて通訳・翻訳の守備範囲といえる。

p40
下手をすると、タブー化することによって、その言葉の延命に手を貸したり、新しい生命を吹き込んだりすることになりかねないのである。

p40
コトバを禁じても、そのコトバによって表現された概念を禁ずることは、不可能であるということに尽きる。

p43
どうやら、優れた医師というのは、決して最終的診断を下すのを急がないらしい。ひとたび診断を下し、病名を確定してしまうと、それに呪縛されて、患者に生じ得る、診断を裏切るようなさまざまな症状を見落としてしまいがちになるからだという。まあ、よくよく考えてみると、病名に限らず、森羅万象を言葉によって表現すること、いうなれば物事を命名するという営みには、常にそういうリスクがつきまとう。

p52
日本の法律に従うと、日本の医師国家試験を通過しなかった医師は日本で医療行為ができない。そのため治外法権であるソ連大使館で診察は行われた。

p54
それまでの意思疎通の悪さは、電話回線のせいではなく、相手に合わせて適切な訳語を用いなかった私が悪かったのである。訳者は常に受け手に理解されることを念頭において訳語を選ぶべきなのである。

p58
受け手に理解されなくては、意思疎通の目的は達成されない。コミュニケーションは、不成立だったということになってしまうからだ。

p73
発言者の表現力や、聞き手の理解力には、日々さんざんに悩まされ、時には、殺意に近い憎悪を覚えるほどに疑い、それでも最大限そのために心を砕き、なのに裏切られて嘆き悲しむことたびたびなのだが、根本のさらに根本のところで、やはりこの二つに期待し頼りにし続けていかねば、わが職業は立ち行かないのだから、仕方がない。

p76
おおよそ通訳者も翻訳者も文科系、それも文学部出身者が圧倒的多数を占めているものだ。もともと技術系、理科系が苦手だから文科系に進んだという手合いが多い。

p78
通訳能力とは、常に新しい分野を勉強していく意思と能力でもある。

p80
各専門分野の通訳に必要とされる知識や用語は、その都度身につければいい。しかし、柔軟な言語駆使能力のほうは、一朝一夕でそなわるものではない。

p89
アラビア語はたった三母音しかないそうだ。

pp92-93
ある会議に出席していて、ベテランの英語通訳が「コウギョウ」と言って、すぐさま「カネヘン 金偏」とつけ加えたのに、いたく感動したことがある。「コウギョウ」には、工業も鉱業も興業もあるからだ。/あるいは「カガク」と言われたら、科学なのか化学なのか文脈だけでは判断しかねるとき、「サイエンス」とか「バケガク」とか言い添える老婆心を、通訳たるもの必ず持ち合わせているべきなのだろう。

p95
コミュニケーションが誤訳によって先へ行かなくなるというときに、初めて訂正すべきなんであって、コミュニケーションが円滑にいってる間は遮らないというのがやっぱり協力者、お互いにチームでやる場合の原則なんですね。「あんたの訳はおかしいよ」ってなことをすぐ言う人がいますけどね、これだめなんですよね。この訳じゃ絶対話が先へ行かないというときは、直す必要があります。それ以外はスムーズにいってるかぎりは直さないというのが原則でして、でないと、その援助が邪魔になっちゃうんですね。

p102
どんな知識も教養も、必要なときに電光石火のごとく登場してくれなくては、ないも同じ、宝の持ち腐れなのである。

p107
逐次訳に際しては、自分の記憶力を過信しないで、必ずメモをとること。通訳能力はメモ能力だといっても過言ではない。

p112
メモは、あくまでも記憶の補助手段にすぎない。記憶を束の間定着させ、再現する際に手がかりになるような記号なのである。だから、究極的には、記憶力が頼り。やはり記憶力そのものを伸ばし、発達させていくことが肝心なのである。

p117
いい訳が出てこないため三日三晩知恵を絞った挙げ句、夢のおつげで、適訳を授けられた著名な翻訳家もいるほどだ。

p119
消極的な知識とは、他人が話したり、書いたりしたものを理解できる、受け身の知識や語彙を意味し、積極的知識とは、自ら話したり書いたりする際に能動的に使える語彙や知識を指す。

p123
どの国の言語であれ、話し言葉ではこの冗語性、すなわち余計な言葉の含有率が、六〇~七〇%という数字がある。時と場合によっては、九〇%、あるいは一〇〇%冗語ということもあり得る。/この、冗語性こそ、時の女神の虐めに耐える通訳者を不憫に思ってか、情報の女神が差しのべてくれた助け船である。同時通訳も、まさに冗語性という名の、情報の女神のお目こぼしのおかげで成り立っているのである。

p123
書き言葉のほうは、一般に冗語性が低くなる。情報密度が濃くなる。余計なゼイ肉を極力剥いだ、嵩(かさ)の割に内容の濃い文章が、一般には優れた文章といわれている。

p125
実は、一部の同時通訳システムには、発言者の勝手な暴走を阻止する目的で、通訳者の手元の「もう少しゆっくり願います」というボタンを押すと、発言者のマイクスタンドの赤い警告ランプが点滅する仕組みになっているものがある。/もっとも私の経験上、一度たりともこの装置が威力を発揮したことはない。おおよそ暴走型スピーカーは、頭に血がのぼっており、眼は原稿を追うのに精一杯で、ささやかにチカチカする赤ランプなどに注意が行くはずなどないのである。それほどの目配りがきく発言者なら、とっくに通訳の許容スピードにも配慮しているはずだ。

p136
どんな商売でもそうかもしれないが、通訳者にとって、最高かつ最良の勉学の場は、仕事そのものなのである。

p139
しかしながら一方で、それでも通訳者は時々翻訳をすべきであると私は考えている。通訳稼業に振り向ける時間を八とすると、少なくとも二は、翻訳の仕事を引き受けるように、私はつとめている。なぜか。時間の制約という、至極もっともな理由に甘えて絶え間ない妥協を続けていく通訳という営みには、訳が非常に粗雑に、貧しくなっていく危険がつきまとう。限られた時間の範囲内であれ、最良最適の訳を目指すという、翻訳者的性向を併せ持つためには、時々もう少し時間的余裕のある環境に身をおいて、じっくりと辞書や専門書に当たり、より的確な語彙、より含蓄のある表現を探索する機会がどうしても必要になってくるのである。

p160
日本人の挨拶というのはあまりにも型通りであって中身がない。空虚なんです。

p163
極言すれば、挨拶そのものが一種の言葉による空白補充行為

p166
日本語で「善処する」「前向きに検討する」という表現を使った当の本人には、何もするつもりはないことである。

pp179-180
別の言い方をすると、翻訳においてはこういった言葉遊びのコード転換が可能な場合がある。しかしながら通訳においてはほとんど無理である。 コード転換が図られないということは、相手にこの内容がまったく伝わらないということだから、通訳者を介すような他言語とのコミュニケーションにおいては、言葉遊びは控えたほうがいい。

p185
このように演説の中に必ず諺や成句、文学書や哲学書の引用、偉人の箴言(しんげん)・警句などを挿入するのは、ヨーロッパの雄弁術の一つのパターンなのだ。

p237
同時通訳ならば、原発言者がしゃべっている時間がすなわち通訳に与えられた時間であるし、逐次通訳の場合は、理想的な通訳時間は原発言が使った時間の八〇%といわれているのだ。

p239
学者の観測によると、何語であれ、話し言葉においては、冗 語の割合がおおよそ六〇%から九〇%、ときには一〇〇%を占めることがあるそうだ。

p242
学問の世界では、言語によって表現されたテキストの中の既知の情報、古い情報のことをテーマ、未知の情報、新しい情報のことをレーマといって、区別している。

p243
およそ文章というもの、既知の情報に新しい情報を付け加えるという形で展開されていく。実は人間の頭脳のほうも、目から、あるいは耳から情報が入ってくる際に「新しい情報は何か、未知の情報は何か」というふうに身構えているはずなのである。だから、レーマさえ伝えれば、話は通じる。この手法は、通訳の現場で大いに威力を発揮する。

p248
ところが最近、シャドーイングはあまり意味がないのではないかと指摘され始めている。聞こえてくるものは、冗語であれ、意味の根幹を担う語であれ、押し並べて等しくなぞっていくオウム返しをいくらやっても、通訳の最大の武器である、情報の核、すなわち意味の中心を見つけ出す技能というか習性、これが身につかないばかりか、身につきにくくなってしまうのでないか、というのだ。

p258
「ヒットラーを想像してごらん。手を上下に大きく振りながら、声張り上げて、演説ぶってる。そばにいた通訳が同じように手を振り、声張り上げてやったら、これすごい滑稽なわけね。つまり、もしかして茶化してるんじゃないか。パロディやってるんじゃないか、というふうにしか映らないわけよ。

p266
文体にまで手を出すべきではない、基本的には標準語に訳していくべきだ、というのが、通訳術の鉄則の一つになっているのだ。

p270
翻訳の場合は、このように文体をも伝える可能性がある。通訳の場合には、そもそも時間的制約からして不可能であるし、下手をすると滑稽にもなるということで、原発言がどんなに方言丸出しでも訛りがきつくとも、私は心を鬼にして標準語に置き換えてきた。

p274
出会い頭最初の瞬間で、この人はスッゴク上手い通訳だという思いこみを相手に植えつけることが大事。不審な目で見られると、通訳って仕事、とってもやりにくいですもの。そのために日本語を美しくすること。常日頃から自分の日本語に絶えず目を光らせて、へんな癖や、「ええと、ええと」とか「あのう」とか「結局」とかいう雑草を意識的に抜いていく必要があります。

p276
「この通訳は、デキる!」/と英語もフランス語も中国語も朝鮮・韓国語もスペイン語もイタリア語もドイツ語もできないわれわれが判断するときに頼りにするのは、その通訳者たちの日本語しかないのだから。

p280
そもそも日本語が出来るからこそ英語は付加価値になり得るのであって、英語だけしか出来ない人なら、アメリカにもイギリスにもオーストラリアにも、ちょうど日本に日本語しか出来ない人がウヨウヨいるように、掃いて捨てるほどいる。さらには、どんなに英語が上手くとも、自国を知らず、自国語を知らない人間は、それこそ国際的に見て、軽蔑の対象であって、尊敬の対象にはなり得ない。

p287
結局、外国語を学ぶということは母国語を豊かにすることであり、母国語を学ぶということは外国語を豊かにすることなのである。

p290
「人間にとって最高の幸せは、その持てる能力を発揮する機会に恵まれることである」

p308
「生きた言葉を通訳するのですもの、的確な訳語を探り出す作業は、『神経衰弱』というゲームのようなものね。表現の裏の裏の意味まで読み込んで対応する表現を言い当てる。日本語とフランス語がしっくりと噛み合った時は、トランプカードがピタリと揃った時の百万倍も嬉しい」

p312
「目標とする師匠を見つけ、最初はカバン持ちでもよいから、その仕事場に同行させてもらい、芸を盗むことだ」

p314
それぞれが一匹狼でお互いライバル同士でもある通訳者たちが、その競合関係を妬みや足の引っ張り合いといった非生産的なマイナスの方向にではなく、技能向上や連帯といったプラスの方向に発展させる条件を創り出すことに、かなり成功している。


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