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あきらめと自由

いつからか始めた誕生日に記事を書くという日課(年課?)。現在地に至るまでの道のりを振り返りつつ、これまでの出会いや経験に感謝をするのが自分にとっての誕生日。当日からは少し遅れたけれど、25歳で得た気づきと、次の一年で大事にしたいことをつらつらと書きとめておきたい。

それから、”自分史上最高の1年を毎年更新しつづける”という自分ルールのフィードバックも少し。

日常をちゃんと暮らすこと

去年の夏頃、あまりに多忙で食事がサプリメントになってしまった経験から、「どんなに予定が入っていても日常をちゃんと暮らす」と決めた。忙しくすごすことは誰にでもできるけれど、日々をきちんと暮らすのは意識をむけないとできないことだなという気づきと内省があり、なるべくご飯を作るようにしたり、遊ぶ時間を意識的に入れている。

社会人3年目に入って責任は少しずつ重くなり、海外出張であちこち行ったりプライベートでも毎月どこかに出かけているけれど、季節の移ろいを味わうことや、ささやかな幸せを楽しむ余裕は保てているから継続していきたい。時折さぼることもあるけど。笑

感情を味わう

不安、焦り、さみしさ、怒り。
幸福度をさげるような感情と解釈されるけれど、それも一つの主観的な解釈でしかない。克服する必要があるものではないし、そこに価値判断をはさまず自分の世界を構成する一つの心象風景として味わいたい。

少し話は逸れるけれど、学生時代に諦めるという言葉の意味を知ったとき「なるほど」と思った。語源を辿ると「あきらかにする」から来ているようで、断念することではなく、ある事柄(の可否等)をあきらかにすることで前を向くというポジティブな言葉だった。

つまり、仮になにか挑戦してうまくいかないとき、その結果が示すのは試した方法が間違っているというフィードバックであり、他の手段の検討に切り替えることだと解釈している。判断を下すために十分なインプットと検討を重ね、ある事象の正誤が明らかになればこそ次の挑戦に繋がるのだとしたら、もっと積極的に諦めるための努力をしてもいいし、意志を持って諦める=手放すことで僕らは自由になれるのだと思う。

ちなみに英語の「give up」も似たニュアンスを含んでいて、一度持ちあげておいて判断を保留する、という意味なのだとか。即座に判断をせず保留する能力を"ネガティブケイパビリティ"というけれど、それぞれ通ずるものがあるなと感心した。

話を戻して、感情や存在のこと。宮沢賢治の『春と修羅』の冒頭が印象的なので紹介したい。

わたくしといふ現象は、仮定された有機交流電燈の一つの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなと一緒にせはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける因果交流電燈のひとつの青い照明です
(ひかりは保ちその電燈は失われ)

春と修羅

蛍光灯が灯りつづけて見えるのは、1秒に何百回と明滅を繰り返しているからで、人の目からみれば「いかにもたしかに灯りつづける光」であると知覚するけれど、明滅という連続性の延長に発生している現象でしかない。

僕たち人間も、ある一定の因果のなかに存在する現象なのだと思う。つまり、ヒトが初めて存在した太古の昔から連綿と紡がれてきた命のバトンの最前線にいるだけで、明滅しつづける生命の延長にすぎないのだなと。ややこしい話だけど、ある存在がたまたま自分という人格を伴ってある役割を負っているにすぎず、そこに価値なんてものはないのだと思う。

亡くなられた稲盛さんも、禅的な世界観に影響を受けていたらしく、こんなことを言っている。

長々と書いてしまったけれど、僕らは現象でしかなく、そのなかで一定の因果を伴って生起する感情もやはり現象なのだと思う。であればそれを観察し、とことん味わいたい。

人生をとことん遊ぶ

人生のテーマは散歩。異なるパースペクティブや時間軸を自由に行き来しながら自分にしか体験できない世界を散歩するように遊びたい。

最近は遊んでいるのか仕事しているのかもわからないくらい、移動を繰り返しながら仕事をしている。移動の距離は新しい発見の数に比例するらしく、自分のこれまでを鑑みてもそれは事実だなと感じる。

普段の暮らしでは出会わない人々に出会い、触れない日常に触れ、食べないものを食べる。ダイビングのライセンスを取りに沖縄に行ったときや、先日いった愛知の芸祭でもたくさんの気づきがあった。それはすぐに価値を持つものではないかもしれないけれど、確実に知見として蓄積されているし、自分にとってかけがえのないものをどれだけ蓄えられたかが、長期的にみて人生の豊かさを形作っていくのだと思う。

26歳の抱負

①挑戦を辞めない
今年はフランス語の学習、トライアスロン、茶道を始める。茶道以外の二つは特に理由はないけれども、自分と向き合うことや、言語を通じて新しい世界のみえ方を楽しめるのではという期待がある。話す言語によって形成されるシナプスに差異が出ることも脳科学のなかで報告されているから、また新しい視点を得られるはず。

②問うことを辞めない
『黒い皮膚・白い仮面』を取り上げた100分de名著のなかで、伊集院さんが言った言葉がまさにと思ったので紹介したい。

「『諦める』ということは、『この人のことをもう知らなくていい』ということなので、完全な分断だと思うんです。そして、『答えが出た』ということは、そこで『偏見』が完成することだと思う。だから、一番大切なことは、『問い続ける』ことで、『よかれと思って言ったことがもしかしたら傷つけているかもしれない。じゃあ、こういう言い方をしたらどうなんだろうか』と思い続け、自分をバージョンアップし続けることではないか」

正直に、人間関係における好き嫌いには明確な基準を持っている。だから聖人君子のように振る舞うことはできないけれど、対人関係に限らず「答えを知っている」と錯覚することは恐ろしいと思う。知や事実、他者や自分に対して謙虚でありつづけるためにも、問うというアティチュードは保ちつづけたい。

③表現する
料理、写真、書くこと、旅をすること、山を登ること。何だっていい。
意志を持ち、どこを目指すのか、どう目指すのか、なぜ目指すのかを突き詰めていくと、それは立派なアートだと気づかせてくれた"展示作品"に出会った。自分という存在を、あらゆる手段を使って表現しつくしていきたいと思う。

自分史上最高の定義

1年前の自分に、いまの自分を誇れるかが基準かなと思う。その観点で自分を鑑みると確実に更新できた。自分の人生で初めて体験することがたくさん詰まった一年で、色んな感情が入り乱れた愉快な日々を過ごせたと思う。

1年後の自分も同じように、おもしろい26歳を過ごしたよと言えるような時間をつくっていきたい。

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