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芸術は人間の肯定

アートが好きです。観る者の感情を動かすエネルギーを持っているし、自分の目では見られない、他者の目から見える世界が見える。理由はいろいろあるけど、好きになったときは、タイトルの通り人間を肯定してくれる居心地の良さを感じた。

1.自分の存在を否定した時期にアートに出会った

大学時代、1年弱東アフリカに滞在していた。
国はタンザニア・ルワンダ・ウガンダ。「市場としてのアフリカの魅力を探る」をテーマに、旅をしながらホームステイや、インターン、ボランティアに取り組んでいた。その経験を通じて、「消費社会にはない幸福の在り方」を見つけ、貧しさとは何か、豊かさとは何かが分からなくなっていた。

そして何より、市場としてのみアフリカの国々や人を捉えていた自分が気持ち悪くて、ひたすら自分を責めていた。

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その時期、純粋に生物として子孫を残す以外の欲を持つ人間であることを受け入れられなくなり、他人や自分を嫌いだった。半ば本気で「死んでもいいなあ」と思ったことも。でもあるとき「人はなぜ文学に惹かれるのか」を、漱石や太宰の作品を読んでいて感じ「そもそもなぜ表現するのか」という問いに行き着いた。

ひねり出したのは「芸術は人間を肯定するもの」というテーゼ。
いかなる優れた作品も、怒り・嫉妬・憎悪・哀しさ・苦悩・喜びといった、人間の持つ喜怒哀楽や欲がなければ生まれない。特別、人の心を動かすのは作り手の内面の苦悩や嫉妬などを表現したもの(個人的にはゴッホが好き)。ここまで考えが至ったとき「芸術には、ネガティブな感情を美しいものに昇華する力がある」と気付き、半ば救いを求めた。

最近では六本木で開催されていたボルタンスキーの回顧展に行ったが、存在・物語・境界線・善悪・記憶・生と死、こういった概念が何なのか、そんな問いをぶつけられたような気がしている。

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2.改めて芸術とは何かを考える

思い悩んだ時期から1年が過ぎて、いま改めて芸術とは何かを考えてみると、【言葉に出来ない特殊な観念を具現化するもの】と考えている。
人間は言葉を操り高度な社会を発展させてきましたが、絵画や音楽の歴史は古代文明以前に遡る。言語が発達する遙か前に、芸術は既に存在していたことの意味。

洞窟に壁画として残した意味は正確には分からないけれど、言葉が発展した現代であっても、自分が感じていることを100%正確に他者に伝えることは出来ない。それくらい頭の中で考えていることは抽象的でありながら複雑で、交換不可能性を有していると感じる。

言葉にしてしまうことで抜け落ちてしまうもの、言葉の不完全さ。同じことは特に感情にも現れる。結局は感情に行き着くけど、怒り、恐れ、好きという感情などを具現化するメディアとしての役割を、あらゆる表現活動が持っている。

「アートとは何か」。答えのない問い。
それは同時に「人間とは何か」という問いにも繋がる。

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