「シビル・ウォー アメリカ最後の日」鑑賞後メモ
ショット(撃つ/撮る)というアクションの恐ろしさ、そして同時にそれに対しての強い執着を抱え続ける人間という生き物の業の深さ、禍々しさについての映画だ。
「撃つ」ことについて描いているシークエンスとして真っ先に思い出されるのは、やはりジェシー・プレモンスが登場する中盤あたりの場面ではないだろうか。地面に(具体的な用途はわからなかったが)粉を撒いているときの手つき、それから主人公のリー(キルステン・ダンスト)らとやり取りをしている間の表情の妙な柔らかさといい、しばらくは彼の意図が全く読めないが故の緩やかな緊張感が持続されるが、それを一瞬で劇的に加速させてしまうのが「撃つ」というアクションだ。彼が着用しているチープな見た目のアイウェアが赤いことも含めて、徐々にアメリカという国がどのような側面を抱えているのかという現在進行形の問題が眼前で浮き彫りになっていく気味の悪さは忘れ難い。
そして「撮る」ことについては、先述した場面と対になるような顛末を辿る終盤のシークエンスにて描かれる。陥落したワシントンでの壮絶な銃撃戦を経てホワイトハウス内部に主人公たちと”西部勢力”の兵士たちが突入していく場面は、激しい銃声とその間に差し挟まれる静寂による緩急のつけ方がある種音楽的なグルーヴを内包しているようなところがあり、主人公らのボルテージが高まっていく様子ともリンクしながら我々を物語の最深部まで引きずり込んでいくかのような印象的な演出も施されているが、最も我々の心を激しく戸惑わせるのはジェシー(ケイリー・スピーニー)の「撮る」というアクションであるはずだ。
また、上述の2つのアクションによって巻き起こるエモーションとも関連しているのが作品冒頭から用いられる、ぼかしである。要は目に見えているもの、心で感じたり考えたりしているあらゆる物事に対して結ばれている像が崩れていく、変化して新たな状態へと移行していく瞬間のダイナミクスを視覚的に表すための演出としてレンズのぼかしが機能しているのだ。東西で分断された現代の北米における内戦という設定もこのダイナミクスを提示するためのアナロジーとして活きてくる。我々はいま、今作において提示され続けるような恐怖と興奮というエモーションによるズームアウト/ズームインを繰り返してしまうがために揺らぎが生じる不明瞭で頼りない視界を通してこの世界を捉え直そうともがいているのだと、そのようなメッセージが内包されているようにも思えた。
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