私の日は遠い #3

 夏樹は油断していた。夏休みに入ってしばらく経ってから数学の課題を学校に置きっぱなしにしていたのに気づいたこと、ただ取りに行くだけだから学校までは私服で行こうかなと考えてしまったこと。そして、家でぐうたらするノリでノーブラのまま街に出てしまったこと。これらの過ちを、夏樹は午前中の普段より空いた涼しいバスの一番後ろの席に座りながら悔いていた。あのときロッカーの中をきちんと整理しておけば、そんでもって、私にある程度の気品が備わっていれば(「いや、これはまだあると信じたい」と夏樹は心の中で呟く)。
 まあ、乳首に私の全ての記憶や価値観が保管されてる訳でもないしな、と謎の方向に思考を展開しながらも夏樹はいつもより強く腕を組んでいた。こんなタイミングで誰かに会うなんてことはないのではないか、さっさとロッカーの方に向かって課題を取ってきてしまえば良いのだ、と自分がやるべきことをシンプルに整理することで落ち着こうと努めた。しかし、バスが揺れ、冷房の風がTシャツの隙間を吹き抜けていくたびに若干頼りない気持ちになることを夏樹は否めなかった。窓の外はよく晴れていた。よく日焼けした上裸のおじさんがロードバイクに乗って、備え付けたBluetoothスピーカーで80sのグリッターなポップソングを垂れ流しながら過ぎ去っていくのを夏樹は眺めていた。

 バスを降りるやいなや夏樹は普段よりも倍速くらいの気持ちでそそくさと歩き出した。教科書やらプリントやらでごった返した「秘密の花園」こと夏樹のロッカーのどこに課題が眠っているのかを、彼女は頭の中で繰り返しシミュレーションしていた。これはもはや気品とはかけ離れた瞬間かもしれないと夏樹はふと思ったが、あまり気にしないことにした。ゆるふわギャングのNENEみたいに、ノーブラにTシャツ一枚でも力強くあればいいじゃないか、という少し飛躍したイメージに彼女は着地してみることにした。
 やっとの思いで校舎の入り口にたどり着いた。少し奥の方にあるグラウンドからは野球部が練習する声が聞こえたり、上の階からは吹奏楽部の管楽器の音が響き渡ってきていたが、幸いなことに夏樹がいるフロアには特に誰もいないようだった。助かった、と彼女は胸を撫で下ろす。

 ロッカーを開けてみると案の定カオスの様相を呈していたが、無意識のうちに繰り返していたシミュレーション通りにいくつかアテになりそうなポイントをまさぐった。閉じ込められていた熱気が長方形の鉄の箱に充満していて、夏樹は少し息苦しさを感じた。早く帰りてえなという気持ちになってきたところでようやく課題を見つけた。何故かは知らないが、隼人から借りっぱなしのジャンプの間に挟まっていた。休み時間に読んでたときに、しおり代わりにしてしまっていたのかもしれない。こんなところにも私のだらしなさが息づいているのだな、と夏樹は自分に呆れた。
 とりあえず、私の大磯ロングビーチク祭が世に晒されてしまう前に帰ろう、と夏樹は校舎を出て行こうとした。すると、どこか近くのロッカーから物音が聞こえることに彼女は気づいた。
 なんだ、誰か猫でも監禁してるのか、と思いながら夏樹はなんとなく音の出どころを探した。それは割と簡単に見つけられた。おそらく隣のクラスのひとのロッカーだった。10秒くらいの間隔を空けて、ゴトンという音が鳴り続けていた。一応夏樹は取手に手をかけてみた。どうやら鍵はかかっていないようだった。
 夏樹はどうしようかと少し悩んだ。もし本当に猫やらウサギやらが監禁されてたらかわいそうだよなとか、いやそんなサイコ野郎がこんな高校にいるのかよとか色々思いを巡らす。すると不意に「おい!」という声が聞こえて夏樹は驚いた。
 急いで振り向くとそこに立っていたのは、野球のユニフォームをきた隼人だった。
 「やっぱ夏樹じゃん。何してんの?ていうか私服?」と隼人。
 あまりに急なタイミングで話しかけられたのでなんと返そうか一瞬迷ったが、脳裏にフッと「ビーチク」というフレーズが頭をよぎったので彼女はとりあえずとっさに腕を前に組んだ。
 「え、なに急に」と隼人は訳がわからないといった様子で夏樹を見ていた。
 「何って、ほら、あれよ。私はこの夏、より気高い存在になるのよ」と夏樹。
 「それはまあご立派な。あ、ていうか俺スパイク取りに来たんだった」と隼人は自分のロッカーの方に走っていった。夏樹もこのタイミングでやっと冷静さを取り戻してきた。
 「あのさあ…」と隼人がロッカー越しに夏樹に話しかける。
 「なによ?」と夏樹が返す。
 「今度、ふたりでどっか行かねえ?」と隼人が素っ気ない感じで言った。
 「え、なに急に」と夏樹。何故か少し視界が揺れた気がした。組んだ腕はもう解けていた。
 「いやー、まあ、忙しいなら別にいいんだけどさ…」と隼人。
 夏樹はさっき手をかけたサイコなロッカーが半開きになっていることになんて気づく余裕もないままに、ガラス越しに差し込む光をぼんやりと見つめていた。

続く

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