私の日は遠い #2

 「全く、今日はとんでもない一日だったわ」
 男はそう呟きながら車を発進させる。朝から降り続いていた雨は30分くらい前に止んで、車体から真っ直ぐ伸びるライトの光が濡れた路面を照らして夜の景色を彩っていた。しかし男はそんなところに繊細な感情の機微を見出すような気分ではなかった。若い男からぶっかけられてしまった小籠包の肉汁があまりに熱くて、まだ顔の皮膚の一部がヒリヒリと痛んでいた。あのあと部下たちにも説明はしてみたが、あまりよく意味がわからないといったような感じで、戸惑わせてしまった。それでも、そのうちの一人である片岡が気を利かせてコンビニで氷を買ってきてくれたのを男は密かに嬉しく思っていた。片岡はまだほとんど新人で少し緊張しいなところもあるが、真面目で誠実な人間だった。彼を採用したのは間違いではなかったと男は思いながら家路についていた。
 交差点で信号が赤になっていたので、男はブレーキを踏んで減速した。彼は何気ない気持ちで目の前の交差点に目をやっていた。すると、目の前で横断歩道を渡って行こうとする青年が片岡であることに気づいた。
 「あ、片岡じゃん」と男は思わず口に出した。信号が青に切り替わると、男は自然と片岡が歩いて行った方向に向かってハンドルを切った。
 男の車はしばらく走り、すぐに片岡の方まで追いついた。
 男は車の窓を開け、「おい、片岡〜」と声をかける。しかし片岡は声が聞こえなかったのか、男の声に反応する素振りを見せずに歩道を真っ直ぐ歩き続けていた。
 声が小さかったかなと思いながら、今度は少し大き目な声を男は出したがまたもや反応はなかった。
 どうしたものかなと思ったところで、片岡が歩く歩道の少し先にコインパーキングの入り口があるのを見つけた。男は車を加速させて先回りし、片岡の目の前に滑り込むような形で停車した。
 流石にこれなら気づくだろうということで、「おい片岡〜。お前、なんかいつの間にジジイ並みの耳の遠さになったな!」と少しからかうような調子で声をかけた。
 今度は片岡も足を止めた。が、何故か顔はずっと下の方に俯いたままで視線を男の方にあげようとはしなかった。
 男はそれを妙に思い、車のドアを開けて彼に近づいた。おい、どうしたんだと男が片岡の肩に手をかけようとしたところで突如、片岡がキッと男の方に顔を上げた。それは紛れもなく片岡のはずではあったが、表情に温度感が感じられず、まるで金属かなにかで出来たロボットのような印象を男に与えた。
 「…どうも、お疲れ様です」とおもむろに片岡は挨拶を返したが、明らかにいつもと様子が違っているのが男にはわかった。
 「お、おい。どうした?なんかあったか?」と男も少し戸惑いながら返す。
 「いえ、これといったことはなにもありはしなかったですよ。ただ…」とそこで急に片岡が口ごもる。
 「ただ、なんだ?」と男。
 「…今日もシンクロ率80%に達することは出来なかった。なんてことないヤツだとは思っていたんだが、思った以上に忠義を貫けるようだ。困ったな、オイラ」
 男はその片岡の見た目をした「なにか」が発する言葉の意味がわからず、黙って呆然としていた。すると、突然ニセ片岡がオエエーっと何かを吐き出し始めた。なんだ、酒を飲みすぎていたのかと男は一瞬変に安堵しかけたが、彼が吐き出していたのは銀色のスライム状の液体だった。男は結局さらにわけがわからなくなってしまった。
 「おまえはどんな心を持ってる?感情の彩り、バリエーションは豊かなのか?」
 そのはぐれメタルみたいな液体が声を発して語りかけてくる様を見て、男は腑抜けた意識の中、昼間の火傷のヒリヒリとした痛みがまだ顔の皮膚に残っているのを感じていた。とんでもない夜は、まだ終わらないのかもしれないと男は思った。

続く

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