私の日は遠い #10

 どこまでも真っ直ぐに伸びていくような渇いたアスファルトは真夏の太陽の熱に晒されて蜃気楼にボヤけた空間を生み出していた。その揺らぎを切り裂くように法子は、明るめのブルーの塗装が施された67年型のインパラを走らせていた。カーステレオからはラジオが垂れ流されていて、今はボサノヴァのような音楽がかかっていた。法子はボサノヴァに詳しくはなかったが、涼しげな音が気持ちいいので機会があればいつかレコードを購入してみたいと今まで何度か考えては時間が経つとそのことを少しずつ忘れていった。そしてふとしたタイミングでまたそのことを思い出した。まだボサノヴァのレコードは一枚も棚に収められていない。
 レコードと言えば、音楽好きの友人夫婦の家に招かれたときに分けてもらった手作りのマーマレードを久しく味わっていないことを法子は思い出して少し懐かしいような寂しいような気持ちにもなった。冷蔵庫に入れておいてキンキンに冷えたのを食パンにベタベタ塗って食べるだけでそれはほんとうに美味しかったし、ひんやりふわっとした食感が朝に食べたりすると気持ちよかった。
 法子が訪ねたとき、その友人の家のレコード棚で端の方に並んでいた真っ白なジャケットに彼女はなんとなく興味をそそられた。それはビートルズの「The Beatles」というアルバムで、通称「ホワイトアルバム」と呼ばれているのだというようなことを法子は教えてもらった。よかったら聞いてみますかと旦那さんが気を利かせてプレーヤーに盤をセットし針を落としてくれた。法子にとってはそのタイミングで初めて聴くアルバムだったので、正直そんなにすぐには音に対してピンとくるものがないように思われた。しばらくそんな調子で曲をかけながら法子たちは談笑なんかをしながら過ごしていたが、不意に聴こえてきたピアノのフレーズが妙に胸に響く感覚を覚えて法子は曲名を尋ねた…。
 こんな調子で法子が思い出に浸っていたところを不意に後ろのトランクの中からドタドタと蹴りを入れるような音が遮った。割と長い時間が経ってしまったようだと法子は思った。
 さようなら、またいつか。淡いノスタルジーに対してのささやかな情を数秒間噛み締めた後で、彼女はアクセルを今までよりも少し深く踏み込んだ。

 なんだか疲れてきたな、と感じ始めた法子は適当に目に付いた通り沿いのダイナーの駐車場に車を止め、マルボロのメンソールを一本吸ってから車を降りると店内に入っていった。トランクからは蹴るような音が相変わらず聞こえていたが、人通りも特にないようだったので放っておいた。
 ダイナーのドアを開ける。昼下がりの時間帯で、客は法子の他には数人ちらほらといる程度だった。「いらっしゃい」と気の良さそうなコックのおじさんが厨房の奥から声をかけてくれた。
 法子はカウンター席に腰掛けるとウイスキーをオンザロックで頼んだ。注文を受けた店員が厨房に戻ろうとしていたところで法子はふと思い立って彼を呼び止めた。
 「マーマレードと普通の食パンはここにおいてあるかしら?」と法子。
 店員は少し戸惑うような素振りを見せたが、「ないことはない」ということだったので持ってきてもらうことにした。
 程なくしてオンザロックが目の前に置かれた。法子は再びタバコに火をつけ、それを人差し指と中指の間に挟んだままグラスを掴み酒を何度か口にした。そしてしばらくぼんやりとした意識に浸った。クソ暑い夏の光がホコリを被った窓を通り抜けて新聞を読んでいるメガネの中年男性の後頭部を照らし続けていた。彼の目の前には鶏皮だけを除けてある、カレーライスを食べ終えた食器が置きっぱなしになっていた。それは誰にも気づかれずに置き去りにされ表面が渇ききっていた。
 あの食器を洗うにはまずしばらくは水につけておきたいなとぼんやり考えていた法子は「お待たせいたしました」という店員の声でやっと我に返った。大きめの食パンが2枚とマーマレードが入った小さな透明の瓶がひとつ置かれていた。
 「ありがとうね。何故だか知らないけれど、久しぶりに食べたくなったの」
 そういうと法子は彼に少し多めのチップを手渡した。それからマーマレードをティースプーンで何度かすくっては食パンの表面にぶちまけていき、さらに全体に満遍なく塗りたくったところで一口かぶりついた。二、三口食べたところで彼女はふと、オンザロックではなくコーヒーを注文すればよかったと少し後悔した。けれどもう面倒臭かったのでそのまま最後まで食べた。ひんやりとした食感自体は気持ちいいものだったが、やはり思っていた味とは少し違っていて、なんとなく目当ての場所に帰り損ねたような感覚を彼女は覚えた。

 食事を終えると法子はさっさと店を後にし、車を駐車してある場所まで歩いて戻った。
 しかし、車から少し離れた場所で法子は異変に気づいた。トランクの隙間から銀色の液体が溢れ出していた。ボタボタと品のない様子で垂れていた。
 「こちとら食後なんだ。もう少し綺麗なもの見せてくれないか。せめてナイアガラみたく虹を纏って輝いてくれよ」法子は車に向かって歩きながら言った。
 「真夏の車内。想像もしたくないよな。俺としては南アルプスの天然水を意識したムーブだったんだがな」
 ドロドロの液体の一部が口の形をして大倉の声を発していた。
 「ここではまだあんたを始末するつもりはないよ。やってもらいたいことがあるんだ」法子はそう言うと、手に持っていたタバコを指先で弾いて捨てた。

続く

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