私の日は遠い #8
達夫は遠方に暮れていた。大倉から特殊な力を授けてもらったにも関わらず、目の前に広がる景色に大して何も思考が追いつかなかった。
「どうですかな、この場所は?気に入りましたか?」
そう達夫に尋ねる男は顔に微笑みを浮かべながら彼の隣に並んで立っていた。男が来ている服や部屋の家具と調度品、そして窓の外に広がる緑豊かな牧場や畑など、隅々まで中世ヨーロッパ風のルックにまとめられていた。
「まあ、戸惑われるのも無理はないですね。どうぞ、そちらにお掛けになって下さい」
達夫はとりあえず男が手で指し示した長方形の大きなテーブルの端の方に歩いていく。部屋に常駐していたメイドのひとりが椅子を引いてくれた。常に薄い笑みを浮かべているが、その表情に温度感はなかった。
達夫が椅子に腰掛けると同時に別のメイドがシャンパンの入ったグラスを持ってきた。男も向かいの席に腰を下ろした。
達夫はシャンパンを一口飲んで口を湿らしてから話し始めた。
「とりあえず、気になることは山ほどあるな。お前は…」
「あ、そういえば自己紹介がまだでしたね。わたくし、オグレと申します。どうぞよろしく」オグレはそう言うと片手でグラスを軽く上に持ち上げながら笑みを浮かべた。達夫の中でこれは腑に落ちない状況だった。微笑み返す気にはなれなかった。
「…お前はこの世界の主かなにかなのか?」と達夫はオグレに尋ねた。
「うーん、まあ、そうとも言えなくはないですが。こちらの事情も色々複雑でしてね。それに関してはまた後日、詳しくお話ししますよ」
オグレの話し方は少し独特で、トーン自体は優しいがそれでもなにか透明な膜で言葉が覆われているような、直接手に触れさせようとはしない距離感があった。
「これ以上に混み入ったことがあるもんかね」達夫はそう言いながら窓の外の景色を見やる。
「だいたい皆さん同じような反応をされますよ。とは言っても、これは別に私が望んでそうなったわけでもないのです。今いるこの屋敷も着ている服も酒も何もかも、むしろあなたたち現実界の方が関与されている部分が多かったりします」
達夫は思わず首を傾げた。
「それはどういうことだ?」
「いや、失礼。何を言ってもなかなか素直に受け入れられないことの方が多いことでしょう」
オグレはふふふと小さく笑いながら酒をひと口飲んだ。
「さて、そしたらひとつご提案があるのですが」とオグレが口元をナプキンで拭いながら言った。
「…なんだ、言ってみろ」
達夫は少し苛立ち始めた。ここは何もかもヘンテコな場所だった。
「しばらくこちらで過ごされるのはいかがでしょうか。もちろんお部屋やお食事など、必要なものはこちらでご用意いたします」
まるで温度感も距離感も掴めないオグレの微笑みには不思議な引力のようなものがあって、達夫は後戻りが効かないような不安を少し感じた。
「なんでそんなことする必要があるんだ?」達夫はオグレに聞き返した。
「せっかくのお客様ですから、この土地について詳しく知っていただきたいという思いがあります。余計なお世話かもしれませんが」とオグレ。
「いや、マジでその通りだよ。今日ってたしか金曜日だろ?ラピュタやるんだって、テレビで」達夫は少し苛立ちを表に出した。
「おやおや、それはたしかに大事な予定ですね。でもご安心ください、ちゃんとそちらの放送も受信できるテレビがございますので」
えっ、そうなの?と達夫は思わず心が揺らぎそうになったが、すぐに冷静になった。こんなわけのわからない場所で平穏に過ごせるものか?辰夫の勘ぐりはますます加速した。
「…とりあえず気になるのは、俺の身の安全だ。お前ら、俺が油断した瞬間になにかしでかしたりしないだろうな?」
テーブルの上で無意識に握り拳をつくりながら達夫は聞いた。
「どうしてそのようなことをする必要があるのでしょう?あなた様は大事なお客様です。むしろこちらとしては責任を持って快適なお時間を提供できるよう勤めるつもりでおりますよ」
何を聞かれてもオグレのやんわりとした社交的な笑みが崩れることはなかった。達夫は力めば力むほど、そのエネルギーが空回りしてオグレの懐にすっぽりと収まっていってしまうような感覚を覚えて情けない気持ちになってきた。
「…そうか、じゃあ、しばらくここで過ごすことにするよ。どうせ俺も今じゃまともな人間ではないしな」
「こちらとしては嬉しい限りです」
オグレは再びグラスを少し持ち上げて達夫のほうを見つめた。達夫も渋々グラスを宙に掲げた。天井のシャンデリアの光が反射して、それに少し目が眩んだ。
続く
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