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夏山雪男がやってくる
教室脇の掲示板。誰の仕業か学級通信とともに、怪しげな鋭い視線をこちらに送る男の姿が貼ってある。選挙ポスターの様相を呈したそれは、オールバックの色黒男。
「亜紀は行く?ふれあいホール」
机の上からむくりと立ち上がる顔に、おかしな線の跡が間抜けについている。
「ああ。あれ、夏山雪男?どうしよっかな。遥香は?」
二人の視線は、オールバックの色黒男と合っていた。
「あたしはね、別に好きじゃないんだよ、ああいう勢いだけの笑いは」
「出た、遥香のお笑い談義」
「いじってんじゃねーよ。あのね、あたしはもっと本格派の漫才師ぃ?コント師のお笑いを求めてんのよ」
「まあこんな町にそんなちゃんとした大物は来ないわ」
噤んだ口の中をぐっと噛みしめるように遥香が頷く。
「でも、あれは旬の芸人じゃない?」
亜紀はずっとポスターの男とじっと目を合わせている。
「旬の芸人っていう言い方がもう駄目じゃない。芸に旬もクソもない。面白いものは面白いはずでしょ」
「そうかなあ。でも、野菜は旬が美味しいよね」
「あたし野菜嫌い」
「おいしいものもあるじゃん、旬なら特に」
遥香はわざとらしく、ぽんっと手を叩き、何かを思いついたような素振りを見せる。
「じゃあ、あたし旬を知らないのかもね!」
「じゃあ帰りにスーパー寄って帰る?夏野菜だったら…」
「野菜はどうでもいいんだよ」
「え、何?」
「野菜の旬はどうでもいいんだよ」
「じゃあ何の話?」
「夏山雪男だろ」
「旬の芸人は興味ないんでしょ?」
「だーかーらー、芸人の旬を知らないから良さがわからないんじゃないかってこと」
「えー、無理に知らなくてもいいよ」
「いやいや、…え、行かないの?」
「行くよ」
「夏山?」
「雪男。行くよ?私は旬、見たいもん。せっかくなら」
「さっき『どうしよっかなー、てへぺろ』、とか言ってなかった?」
「言った。そんな言い方してないけど。行くつもりだったけど、なんとなく話の流れ的に?そんな感じかなと思って言ってみた」
「どうしよっかなー」
「やめろ、その言い方」
亜紀はポスターの男と遥香の変顔を見比べた。ドロー、と心のなかでつぶやいた。
「じゃあ最初から言ってよ」
「え、でも遥香は行かないんでしょ?」
遥香はまたもわざとらしくため息を付いてみせた。
「しょうがないからあたしも行ってあげるよ」
「いいよ、無理しなくて」
「いや、行ってあげる」
「本物の芸じゃないから」
「行くよ」
「いや一人でも」
「行くって!」
「…行きたいの?」
「行きたいって!」
「じゃあ最初から言えよ」
色黒オールバック男の大きな顔は、ずっとニヤリと怪しげに笑っている。
あの夏山雪男が、また地元のふれあいホールにやってくると聞いたのは、遥香からの連絡だった。特に大きな連休というわけでもない普通の週末だったが、帰る理由に不足はないと、なんとなく亜紀は思った。
懐かしのふれあいホールは昔のまま、もともとくすんだ色をしていたせいもあってか、あたりを取り囲むLEDライトの街灯以外は、ほとんど変わっていなかった。すっかり薄暗くなった夕暮れ、その街灯の下でこちらに向かって手を振っているのが遥香だった。
「まさか帰ってくるとは」
「別にそんなに遠い距離じゃないよ」
「こんな辺鄙な町にわざわざさ」
「そうは言ってもたった一つの故郷ですから」
駐車場だけがやけに増えたように見える、ホールの周囲を見回しながら亜紀は言う。
「いやあんたのことじゃなくて」
「え」
「亜紀とはこのまえ会ったばっかじゃん」
「だよね」
「なら話し続けるな、怖いな」
「なんか変だなーとは思ったけど、なんとなく続けてみた」
「その雰囲気に流されてみるみたいなチャレンジ?こっちの負担が増えるからやめてよ、成長しろ」
「失敬。で、何が帰ってくるって」
「夏山雪男」
「なに帰ってくるって」
「覚えてないの?中学のとき、ふれあいホールに来て一緒に見に行ったの」
「覚えてるよ。だからわざわざ来たんじゃん」
「だから帰ってきた、でしょ。あのとき来た夏山雪男が長い年月を経て、またこの地方の辺鄙な町に帰ってきたわけでしょ」
「いやまあ、そうね。でも夏山さんの地元じゃないじゃん」
「なに、夏山さんって。勝手に距離とるなよ。そりゃ地元じゃないよ?地元じゃないけど、凱旋じゃん。私達にとってはふれあいホールの夏山雪男が故郷?みたいなところあるじゃん」
「たぶん凱旋は地元だけだと思うよ」
「いいんだよ、帰ってきたんだよ。ウルトラマンだって別に地球が故郷じゃないだろ」
「ていうか、遥香、夏山雪男そんなに好きじゃなかったよね?」
「好きなわけないじゃん。あたしが好きなのは」
「本格派の漫才師でしょ」
「とか、コント師。別に夏山雪男は、面白いから見に行くわけじゃないじゃん」
「じゃあ何しに行くのよ」
「あたしの中の思い出に会いに来てんのよ」
「うるせえよ」
「うるせえって何だよ」
「まだ芸人やってたんだねえ、夏山雪男」
「やってるよ。テレビとかメディアにはほとんど出なくなったけどね。地方の巡業とかメインだけど続けてる。あ、BSはレギュラー1本あったか」
よく知ってんな、という目で亜紀が遥香を眺める。
「旬が過ぎても頑張ってんだねー」
「旬なんてないんだよ」
「でも、野菜は旬が美味しいよね」
「野菜には旬があるからね」
「最近なんか美味しい野菜食べた?」
「あー、ちょうどこの前すっごい美味しいポテトサラダ食べたわ」
「どこで?」
「駅前にさ、古民家カフェ?みたいなとこが新しくできてね、そこで。あたし好みのしょっぱめでさ、おつまみにもいいし、ご飯にも合いそうな感じで」
「へー、いいかも」
「あ、じゃあさ、終わったら行ってみようよ」
「乗った」
「おっしゃ、俄然上がってきたねえ」
「でもさ」
ガッツポーズのように振り上げた拳をそのままに、遥香は亜紀の方に顔だけ向けた。
「あんまポテトサラダに旬とかなくない?」
夏山雪男がやってきた。
出囃子から「なんでこんな寂れた街にきてフルスロットルで話さなきゃいけないのか」という入り、そしてギャグやコントに至るまで、驚くほどあの頃見たものと全く変わっていなかった。数少なく変わっていたのは年相応の体のキレと、後ろの方の座席がまばらに空いていたことくらいだった。
ホールから流れ出ていく地元民の中に亜紀と遥香も混じっている。外へ出ると既に日は落ちていて、真っ暗闇にLEDライトが煌々としている。かすかに聞こえ始めた虫の鳴き声とともに、汗ばんだ肌にそよ風が気持ちよくなびいた。
「最高だな、夏山雪男」
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