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口を噤んでグッドラック

「今年も4月になりまして、新しい生活が始まられた方も多いのではないでしょうか」

いつも爽やかな朝のニュース番組から、より一層の晴れ晴れしさを誇張しようとする声が聞こえる。

「春は出会いの季節でもあれば、別れの季節でもあります。今朝も急なニュースが飛び込んできました」

そんな桜色のBGMの中、ただひたすらに続けてきたルーティンをこなし、いつもと同じ背広を着て、いつもと同じ時間に家を出る。

「ちょーショックなんだけど」
「ガチ。引退ライブとかやらないわけ?」
「なんで急にって感じ」
「それな。なんでだと思う?」

遅延の間隔もむしろ予定通りの電車の車内。学生服の若者たちが口々に話している言葉は、新生活の晴れ晴れしさとは少し異なるものでもあった。

「では時間になりましたので朝ミーティング始めます。いやー、引退ですってね」

人によって全く異なるタイムラインを生きている時代であるはずなのに、生活する場所も世代も重ならない人達の間で、同じテーマが語られていることが信じられなかった。

「結構事務所と揉めてたらしいよ」
「なんか頭おかしいファンが付いちゃってたとか」
「スキャンダルの話もあるんだって?」

いつもならまったりというのか、どんよりというのか、ゆっくりした雰囲気で選んでいた定食屋でさえ、そんな調子だった。エンターテイナーというのは、辞めるまでエンターテインしてくれるのだなと思う。

「みんなで一緒に飲もうって話なんですけど、来ます?ライブ映像が配信されるっていうんで」

そんな誘いもやんわり断って、いつものスーパーに立ち寄って惣菜を揃える。自宅の明かりをつけて時計を見れば、いつもと同じ時間である。新生活とはどこへやら、見慣れたマークがついたビニール袋から取り出した面々を電子レンジにかけ、一足先に冷蔵庫から缶ビールを取り出す。

レンジの駆動とは別の振動を感じて目を向けると、スマホのディスプレイが点灯していた。表示された見慣れない名前に反応できず、着信を受けるのに少し時間がかかった。

「なに、ずいぶん久しぶりじゃん」
「おっすー」
「どした?」
「いやー、春、だからね」

通話の向こうでヘラヘラとした笑い声が聞こえた。

「春に出てくる変な奴に会っておきたいって?」
「そうそう。春を過ぎるといなくなっちゃうから」
「なんかやってたな、学生の頃。思い出してきちゃったよ、嫌だ嫌だ」
「何が嫌なんだよ?大切にしてよ、思い出の中の私を」
「急に電話かけてきて何言ってんだ、気持ちわりいな」
「それが久しぶりに話す昔の女にかける言葉?」
「女って」
「女だろうが」
「そうだけど別にそういうんじゃないだろ、悪友よ」

しばらく会っていなかったにも関わらず、話し始めると当時の自分が再生されるのが不思議だった。

「お互い様だろ、変なのは」
「なんだ?私は常識人よ」
「いや、あーそうだよ、学祭のときだって」
「またその話?黒歴史以外に私の記憶はないのか」
「黒歴史も立派な思い出ですよ」
「バンドのライブでしょ?何回話すのよ」
「何だっけ、なんかワーキャーがいるバンドがあったんだっけ?」
「ちょうど私達の前が盛り上がったのもあったんだけど、なんかそれもあってテンション上がって騒いじゃってね」
「そうだそうだ」
「収集つかなくて曲が始められなくなっちゃって」
「でな、なんだっけ、何かお前が言ったんだよ」
「うるせえ的なね」
「そうそう」
「そしたら一瞬でシーーーンってね、それまで超盛り上がってたのに」
「あんな音を奏でたバンドは他になかったよ」
「ピキーーーーーん、みたいなね。音のない空間に放り込まれたみたいな。曲は始められたけど全然盛り上がらなくて」
「そりゃそうよ。応援してる子たちまで黙ってんだから」

会話が往来するたびに記憶が映像として蘇る。笑いと言い合いの切れ目にふと時計を見ると、思いのほか時間が進んでいた。

「あー、ごめんね、夜遅くに」
「いや久しぶりに馬鹿話できてよかったよ」
「あのさ」
「うん」
「仕事辞めたんだよね、私」
「おう」
「やれるだけのことはやったかなって思ってはいるんだけどね」
「うん」
「なんかここまでかなって。いろんなことひっくるめてさ」
「そっか」

彼女の話はしっかりと状況が整理できていて、とても分かりやすかった。おそらく自分がその立場だったとしても、同じ選択をしただろうと思えた。

「どう思った?」
「自分でそれでいいと思ったんならそうなんじゃない?」

自宅のテレビ画面には「電撃引退」というテロップとともに、音楽ライブの過去映像がひっきりなしに流れていた。おびただしい数の聴衆に囲まれたドームのステージに立つ姿と比べても、記憶の中にある、静まり返った学祭の小さな板の上でのその姿は、それに勝るとも劣らなかった。

「黙ってろ虫ケラども、だわ」
「え?」
「学祭のステージで言ったの、思い出した」
「これから演奏しようとするステージの上で?」
「黙ってろ虫ケラども」
「盛り上げるパフォーマンスとかじゃなくて」
「じゃなくて」
「黙ってろ?」
「虫ケラども」
「そりゃピキーーーーーん、なるな」
「でもそういうことじゃなくない?」
「何がよ。みんな言うこと聞いてんじゃん」
「言うことなんか聞くなよ!」

電話を切って大きく伸びをする。飲み残しの缶ビールをぐっと飲み干した。

「また飯でも」と送りあったメッセージに、「俺の話を聞け」という吹き出しのついたオヤジのスタンプが、でかでかと表示されている。画面をスライドさせた先のニュース速報に「令和の歌姫、SNSアカウントも全削除」という文字が見える。

テレビの中のライブ映像では次の曲の前奏が始まっている。「お互い様だね」と、澄んだ歌声が響いた。

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