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見栄という鎧を剥がそうとするのではなく。

先日ラジオでチラッと耳にした「見栄」という言葉が、なんだか頭を離れない。それについて何か考察すべきことがあるのだろうか。きっと、私が私に今まで見栄を張り続けてきたって言いたいに違いない。

色々気になって辞書でも引いてみちゃったり。【見栄を張る=他人によく見られるようにうわべを飾ること、他人の目を気にして不相応な体裁をつくろうこと】をいうらしい。この定義を読んで私の心がザワザワするのは「他人の目を気にして」という部分。うわべを飾ることは、とても素敵なこと。飾ること自体は。でもそれを自分の思うように、やりたいように飾るのではなくて、他人にどう見られるかを気にして、というのが、「不相応な体裁」を招くことになっているように思える。

私自身、見栄を張っている人のことは、見ているとなんとなくわかる。その人の中に「不一致さ」を感じ取れるから。外見、中身、言動が一致していなかったり。でも、自分のこととなるとやっぱりわからなくなるもの。自分では見栄を張ってるつもりなんてなくても、もしかしたら見栄になってしまっていることもたくさんあるのだと思う。自分自身ではわからないのだけど、見栄を張っている人のことを見ていて感じるのが、その見栄の後ろに隠れたその人は、とても柔らかいということ。どんな見栄を張っていたとしても、その後ろには繊細なものが隠れているように感じられて仕方がない。

見栄を張ることで、見栄という硬い(そう見えてるだけだけれど)鎧を纏うことで、その後ろに隠れている柔らかくて繊細な部分を守ろうとしている。見栄っていう言葉だけを聞くといやらしいネガティブなものに思えてしまうけれど、見栄って本当はとても優しい。日々色んなところから飛んでくるトゲを跳ね返して、繊細な柔らかいものを傷つかないように守ってくれている。

見栄を張らない方がいいなんて思わない。見栄はあなたの自分への優しさの表れだから。だけど、見栄をちゃんと見栄と認めてあげて、いつも自分を守ってくれてる存在に「ありがとう」って言えたなら、きっと硬い鎧に見えたその見栄は飛んでくるトゲさえも優しく受け止める、大きな存在になるんじゃないかな。

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