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一人断腸亭日乗 平和について

ぶるーみおのこの曲を聴いて、平和について考える休日。

ステキな歌詞でステキな曲だ、そこに異論はない。その上で平和って何かを僕が考えるnoteそういう趣旨。

ぶるーみおが言っていた、「ナチやろう!って攻撃したってなんの解決にもならないだろ、本当はお前らも友達だろ、って手を差し伸べるのが平和なんじゃない?」

すっごいわかるし、すっごくステキな事。

でも僕にはそれが「平和」なのかどうか全く判断がつかない。

偏見の醸成

自分が考えているこれが一つの偏見であって真実ではない、という可能性が出てきて少し怖かったりもする。もしかして世界は「平和」への路を残しているのじゃあないか、幸せの路、理想郷への道を残していてくれているのじゃあないか?と。

その不安を胸に僕は偏見を口に出そう

「支配を成す方法は二つある。一つは自分以外の人間を打ち倒す事。もう一つは、全ての人間を仲間にする事だ」

そして僕は、全ての人間を仲間だ、と豪語する人の行動を知っている。宗教的洗脳だったりする。

彼らは、一つのルールに従う。そのルールが宗旨によって様々に分けられているのだけれども、そのルールを守れない人間、そのルールに従えない人間がいざそのコミュニティーから抜けようとすると、途端に嫌がらせが始まったりする。陰口悪口誹謗中傷。大多数VS個人の戦い。勝ち目のない戦いに沢山の勇者が敗れていった。そんな場面を、僕はよく見ている。

でも確かに、一つのルール、一つの目標に向かって全体が進んでいく、それはとてもステキな事だ。安心感があるし、自分が一人ではないと感じられる。でもそのルールに添えなかった人はいったいどうなっちゃうんだろう、僕はいつもそれを考えている。

一人ぼっち革命

僕はずっと、「一人」を胸に抱いてきた。それは所謂サヨク的革命主義、アナーキズムの根幹、親愛なるショーペンハウエル。全ての「権威」から背を向ける、高島野十郎イズム。別の視点からみればそれは「頑固」で「わからずや」で「偏屈」なおっさんの思考、でも僕にはその静かな、静謐な時間がすごく安らげる時間であるし、なるべくならその時間が長く続けばいいと思っているんだ。全ての権威、権威によって守られる安心、それから背を向けて、しわがれた拳を振り上げ続けること。そしてしわがれた拳を振り下ろさない事。

居るのか居ないのかわからない事、まるで道端に転がる石ころのように、全て無為な存在でありたいから僕はこの名前を選んだ。一人だ。

無為な存在であるのならこんな文章をしたためる必要もない、だからまたこれも無駄な行為。その無駄を突き詰めた先に、僕は蓮の花を見る。汚泥の中でしかあの花は咲かないからね。

でもこれって、平和からは程遠い思想なんだろうな。

貴方と私は違う、という宣戦布告

貴方は貴方、私は私。これは個人で行える宣戦の布告で、闘争は其処から始まるのだけれど、その闘争が成るべく血を伴わないものであるといい、と僕は思っている。例えば僕のように、コミュニティーに所属できないある種の潔癖症の人間にとってそれは救いだ。人間の思考をノイズとして、自分の中に隠れすまう感覚。そいつは逃避だよ、って皆言うけれど、ガラパゴスであった日本の物語が、海外で進化し、海外を圧倒している理由はガラパゴスにあった、と僕は思っている。見慣れないものは珍しく面白い。全てが明らかになっていく世界で、全てを明らかにしないコミュニティーが存在すればそれはまた一つの価値じゃない?僕は願うことならこの「オカルト」を大事にしたいんだよ、世の中から謎がなくなっちゃあ面白くない。

幸せに手を取り合って笑いあう、そんな理想郷が、怖くて仕方ない人間も存在するんだ。

只管に静かで、山の奥で、誰にも知られないまま腐っていく理想郷なんて考えられなかったでしょ?

でもこれが逃避だというのなら・・・その可能性が高いのだろうけれども、私も世界に出なければならない。そうして作り笑いを繰り返し、人々に愛を説かねばならない。手を取り合う事を啓蒙しなければならない。そうして私はかつての私を裏切って進む。きっと私と同じように、静謐を旨とする人間を攻撃しながら。

どうか「貴方」。

コミュニティーに存在できない貴方。言ってはいけない事を言ってしまう貴方。嫌われ者の貴方。貴方のあり方をそのまま貫いて生きる世界が来ますよう。貴方はあなたです。私はそれを認めます。これは宣戦布告であり同時に、

同盟とリスペクトの最初の一歩でもあるのです。


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