シリーズ・うちと熊本地震

ぢつわ、僕の住所、熊本阿蘇神社から車で一時間ほどでs。その辺だと思ってもらえれば。大好きな場所、なんですよ。

兎に角神社の中、穏やかで暖かい空気が流れてて、キモチが穏やかになるんですよ。時間の流れが遅くなって、ご朱印頂くまでの数分の間、玉砂利踏みながらぬたり、ぬたり、と歩く。拝殿して、「今日はお招き有難う御座いました」っていう。神社に参拝するときは基本「お招き頂いた」と解釈します。ご縁です。で、境内から見えるこの山が本当になだらかで美しいんですよ。女神の様でね。

雪景色の山が見えますか。新緑の季節にはね、アレが柔らかな萌黄に全面輝いてね、胸のすくような心地になります。この写真もね、在り難い事に到着時は雪模様だったんですが、参拝終わる頃には晴天でね、ああ、嬉しいな、受け入れられているな、と感謝したもんですよ。

阿蘇はね、兎に角食べ物も美味しくてね、バイキングレストランで出されている、ジャージー牛乳、濃くて甘くて美味いんです。バイキングで食べてやる!っていって牛乳で腹いっぱいになっちゃったり。

その阿蘇が、阿蘇神社が。

画像見た瞬間、兎に角泣けてきて、哀しくてね、いや、わかるんです、肩代わりもしてくださったんだろうって。でもね、その犠牲がね、哀しいやら在り難いやら情けないやらでね、もう感情がごっちゃになって泣けてしまうんですよ。

南阿蘇、高森の水源、高森から高千穂、大好きな場所。それが、ああ、これは自然の事なので、僕らにはどうしようもない事なんですがね。やはり哀しいし、夜は不安です。少し物資は戻りました。まだ余震は続いています。眠れない夜を過ごしている方々が居ます。

不安だから見てしまうネットで、色々な憶測だけが飛んでいる。テレビに登場した時点で、我々は消費物なんだなあ、ってキモチになっています。

311の時に気付けなかった。申し訳ない。今この戦争の状態を経験して、災害を消費する人間の汚さも、消費される人間の惨めさも知りました。

5年前に書いた記事を全文載せます。このスタンスだけは変わりません。


災害時ってのは本当に人間の本性が浮き彫りになるね。
ツイッターや、各種ネットでの情報見てるとなんとなく、そのコミュニティーに居る人が何に対して普段不満を感じているかみてて面白い。
 学位という権威を振りかざして、専門用語と専門知識のみを駆使し、政府批判を繰り返す人間。
それに踊らされて、不安を拡大させる一般庶民。
裏を返せば、不安を拡大させ続けることで、会社にも行かなくていい、働かなくていい、という利益をこうむるニート諸氏。
また不安を拡大させ続けることで、不安なのは自分だけではない、という事を確認したい、不安がり屋さん。
また、冷静に状況を見ながら情報を集め続ける人間。
逃げたって何したって、いつかは死ぬのだ、とその時自分に与えられた「仕事」をもくもくとこなす人間。
そういう人はまず、ツイートしないよね。
政府発表に際してあらゆる観点から陰謀、捏造を妄想する人間。
そうして自分の妄想が認められないと大発狂を起こしてしまう。
この機に応じて政府転覆、なんていう人もそう。
この状態での無政府社会って一体なんなんだろうね。
どうせ頭というのは空っぽで、本来動くべきは手足なのだから、仮置きの頭ぐらい認めてあげてもいいでしょうに。
自分はどこに居るべきかな、と自分の立ち居地をすごく振り返れる一週間でもありました。
望むなら冷静であり、与えられた仕事をもくもくとこなす、そういう人間でありたいと思います。
本当に、自分が今何をやっているか、それを冷静な第三者の目で見る視点って大切だね。自分の基盤をぶれないよう、ずれないようにするにはその方法しかないのかも。そして、自分の基盤をずれないよう、ぶれないようにする、とっても簡単な方法が、「労働、仕事」なんだろうね。
感謝を。 

仕事をしましょう。災害時こそ。日常の仕事を行いましょう。それは我々の生活の基盤です。非日常にこそ日常を確認しましょう。貴方の仕事はなんですか。ついったでいきまくことですか。嘆き哀しみヒロインになる事ですか。哀れな物乞いになる事ですか。

「私達の今、やるべき事」はなんだ。


岸田教団のこの歌詞が今更ながら染みます。

大体の場合、えらいヤツは信用ならないけど、必要があるなら、仕方ないって思えなくもない。ならやるべき事は解りきっているはずだ、それくらいのやる気はあるだろう。

#地震 #熊本地震 #九州  

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