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どうかみんな救われますように

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カーテンから透ける光で目が覚めた。昨日は一日中ドライバーを握りしめていたから手が赤く腫れて痛い。食料の買い出しとか、職場に提出しなければいけない書類のコピーとかやるべき事が沢山あったので家着のまま久しぶりに家に出た。久々の外は思ったよりも暑くて、ニット素材のカーディガンを着てきた事を後悔した。

スーパー目指して坂道を下っていくと、強い風が吹いて私の髪をかき混ぜながら、どこからか桜の花びらを飛ばしてくる。坂を下りきったところの並木がいつの間にか桜並木に変わっていた。すれ違う人皆パステルカラーの服を着て、明るい春の装いをしていた。そしてそれぞれがマスクをしていた。すれ違った親子連れがお揃いのピンクのマスクをしていた。サイズまでお揃いで、父親のマスクは体を張って口と鼻を覆っていた。

橋を渡って大通りに差し掛かると、通りにあるドラッグストアに行列ができていた。開店前なのか扉は硬く閉まっていた。並んでいる人は皆マスクをしていた。皆一様に暗い、ピリピリした雰囲気を纏っていた。その人たちを横目に見ながらショートカットしようと駐車場を横切って歩くと、行列の中のひとりの老婆がこちらを見た。そしてどうやら私がマスクをしていない人間だと分かる距離に来ると、マスクの上から口を手で押さえ、眉を寄せ身をすくめた。玉子焼きの中に混じっていた卵の殻を噛んでしまった時の私の反応によく似ていた。

スーパーに行くと、営業時間を記憶違いしていて開店の5分前に着いてしまった。そのまましばらく待っていると、2分前になった時、ひとりの女性が扉の前にきて仁王立ちして開店を待った。セールでもあったのかな、と思いつつ、開店した後ダッシュで飛び込んでいく女性の後を遠くからついていった。女性は日用品のコーナーに行き、棚の空になっている部分を凝視していた。そこには「マスク入荷未定」と書かれた一枚の紙が置いてあった。私は豚肉と鶏胸肉が20%引きになっていたのでそれを購入した。

帰り道、ドラッグストアの側を横切ると、店員が店の前に「マスクは売り切れました。月曜日は入荷予定ありません。ご迷惑をおかけします 店長」と書かれた張り紙を張り出していた。店員さんは私と目が合うと深く腰を曲げて頭を下げた。ドラッグストアに入る用事は全くなかったが、なんだか申し訳なくてカビキラーのスプレーと米櫃に入れるトウガラシを買った。

家に戻ると、なんだか部屋の空気が重く湿ったように思えた。窓を開けて外を見ると、相変わらずパステルカラーの青空が広がっていた。日差しを数秒浴びた後、お気に入りのプレイリストを再生した。マンションなので控えめな音量のBoss bitchを聴きながら肉の下処理をしていると、音楽の間に割り込んでラインの通知音が鳴り、メッセージの着信を知らせた。鶏胸肉を持ったまま画面を覗き込むと、メッセージは最近知り合ったバーの店長の友人からのものだった。都市部にお店を開くのが夢だった、そう目を輝かせていた彼女とは、コロナ禍が始まってから会ってもいなかった。

『いきなりで申し訳ないんだけど、うちのお店に来てくれませんか』

『最近ほんとにお客さんが少なくて、潰れそうです』

『非常識なのは分かってるけど、もう色んな人に頼るしかなくて』

こんな内容のものが連続して来た。私は右手の指先に僅かに力を入れて鶏胸肉の弾力を味わった後、ひとまず作業を終わらせようと鶏胸肉の皮を剥いで生ゴミ入れに捨てた。特売の3個入りのものを買ったから残り2つもある。血の塊と皮を毟りながら、私はどう断ったら彼女を傷つけずに済むだろうか、と考えていた。

『ごめん、仕事が忙しくて…また落ち着いたら行くね!』

『ごめん、やっぱり今は外出控えたいな。コロナにかかったら怖いし、周りにも迷惑かけちゃうし…』

『ごめん、ちょっと難しい。大変なのは分かってるんだけど、私もちょっと厳しいかな…』

色々な文面を模索し続けたが、どれもいいと思えなかった。嘘は1つもない。私の現状と気持ちを鑑みた返信候補だ。けれど、これを送ったら彼女は何を思うだろう。きっと、そうだよね、無理を言ってごめんね、と返信をくれるに違いないけれど、一体どんな気持ちで私の返信を待っているのだろうと思うと、胸がどんどん苦しくなる。鶏胸肉の赤黒い血管を、丁寧に丁寧に刮いで、ビニール手袋をはめた指でちぎって、生ゴミ入れに放る。

じゃあ、行くと返信したらいいのか。

行って、出来る限りお金を使ってあげればいいのか。

出来ない。私は、そこまでの善意の奉仕を、友人に捧げてやる事ができない。

結局、どんな返信も彼女を苦しめるものだなんて、分かっている。だって私には行くという選択肢がない。けれど彼女にも、後がないのだ。ここで諦めたら、彼女の夢は終わる。

肉の山を1つ1つ冷凍庫にしまい込み、そのうちの1つの豚肉の塊を皿にのせた。そして冷蔵庫から取り出した白菜を洗って適当にちぎって豚肉の上に乗せ、ラップをかけてレンジに入れた。5分をセットして、レンジのターンテーブルが回るのを見ながら、私はスマホを手に取る。LINEの通知は増えてはいなかった。彼女は私の返信を待っているのだと思った。私はトーク画面を開いて、彼女とのトークを開いた。

『本当にごめん、行けないや』

そこまで打って、急に胸がズンと重くなって座り込み、打ちかけた文字を全部消した。苦しかった。でも、苦しいのは私だけじゃない。すれ違った親子連れも、私を見て顔を顰めた老婆も、ドラッグストアの店員も、スーパーのあの女性も、彼女も、それ以外の人も、誰もかれもが苦しんでいる。誰も悪くない。なのにどうして、こんな思いをしなければならないのだろう。

世間では外出自粛が叫ばれている。手洗いと、うがいと、マスクをすること。人混みには行かないこと。複数人での飲食は控えること。それを破って外出する人々の様子はニュースに流れ、映像に乗って全国に晒されて、間違った行いだと叩かれて批判される。

たしかに、外出自粛に始まる全ての行いはみんなで協力するからこそ効果を発揮するものであり、全員で為すべき正しい行いだ。でも、その正しさだけでは無くせない苦しみが、ジレンマが、ここにあったことを、私は決して忘れないだろう。

どうか、みんなが救われますように。

みんなが幸せになれますように。

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