決定的な違い

今朝は、子供達三人を学校にドロップオフした後、そのままPTAのミーティングに出席した。数週間後に迫る年間最大のファンドレイジングイベント、The Fall Fair(秋のお祭り)に関してのミーティングで、毎週行われている。

私は頼まれて二つのイベントのチェア(仕切り役)をやっているので、ミーティングにて状況のアップデートをしなくてはならない。

それにしても、アメリカ人のお母さん方、皆さん主張するする。アイデアも沢山。称賛も文句も沢山。子供の頃から自由にさせて貰ってきたんだろうなと、文化の違いを毎週感じる。子供の時から家庭で主張させて貰い、アイデアを出す機会を沢山貰い、沢山不平不満を言ってそれを受け入れてもらったり、受け入れて貰わなかったり、ネゴシエーションしながら、大人になったんだなと、見ていて感じる。人前で話すのもごく自然に、ネゴシエーションもごく自然に、文句というかクレームみたいなのもごく自然に、私のように構えることなく言える。

私は厳格な両親の元日本で育った日本人なので、アメリカ人は自由でいいなと思うけれども、もちろん、彼らの様にはなれない。

でも郷に入れば郷に従えで、私なりに凄く気をつけている事がある。日本人とアメリカ人の決定的な違いだ。

アメリカ人には、どんな少しの協力でも、して貰ったら必ず公の場で、名前を出してクレジットを与えるのがかなり重要だと感じている。

「〇〇さんがメールの返事を素早くして下さったお陰で、スムースにまとまりました。〇〇さんには、感謝しています。」

「〇〇さんが、私と一緒に仕切り役をやって下さって、△△コーポレーションに連絡を取ってくださっているお陰で、□□イベントの話がまとまりそうです。〇〇さんには感謝です。」

というような事を要所要所で入れる。本人にさえ直接お礼を言えば感謝の気持ちは伝わるのではと、私は長い事思ってきたのだが、私は間違っていた事に気が付いた。

公の場で、皆がいる場で、願わくはパワフルな人が集まる場にて(この場合だと校長先生とか役員会のお偉いさんなど)、クレジットをあげるからこそ、意味があるのだ。これにより、クレジットをあげる側と貰った側の関係がスムースになり、信頼関係ができ、次に繋がるのだ。

私は人前で話すのは凄く苦手だし、ファンドレイジングのアイデアというのも、産まれて育った環境的に自然に思い浮かばない。でも、公の場で感謝の気持ちを、名前をだして言うという事に関しては、きちんとやっていると思っている。

アメリカの学校でも、週末の日本語学校でも、どちらでもそれなりに気を遣うけど、私はアメリカ人の、自由で合理的でなパワフルなところが、結構好きだ。

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