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学校に求めるもの

子供たちの通う学校で、来週個人面談がある。
私はこの面談が毎年苦手で、今から少しお腹が痛い。

苦手な理由は、文化の違いが明らかになり過ぎて、正直気持ちがついていかないのと、話を聞きながら、何だか申し訳ない気持ちになるからだ。

先生の超がつく程の熱心さ。
褒めて褒めて褒めまくるアメリカ人の気質。
あまりに細かい項目に分けての学業や生活態度におけるコメント。
分野ごとに分けた、この一年間のゴール。

それはそれは熱心に語ってくださる先生の前で、一生懸命、「熱心な保護者のふり」をしなくてはならない。それが一番つらいのだ。先生の話してくださる項目を、相槌をうちながら、さも興味ある風を装って、聞くのが・・。

でも、他の保護者の方々の熱意は真逆だ。前もって質問のリストをつくり、保護者の両方が出席できるように仕事の都合をつけて、それはそれは凄い意気込みで参加しているように、私からは見える。離婚している家庭は、双方が別々に面談する。

保護者によっては、先生に対して直接クレーム的な事を言える場として、有効(?)に使っている方々もいる様子だ。

「メールの返事を早くしてくれないか。」

「給食が冷めてでてきた。」

「給食が好みでないので、ベーグルをくれとサーバーに頼んだら、もうないと言われた。」

「算数のカリキュラムが詰め込み的でクリティカルシンキングを育てない内容だ。もっといいものにしてくれないか。」

「宿題が多すぎる。」

「宿題が少なすぎる。私の子供はギフッテドなので、もっと難易度の高いものでないと、退屈してしまう。」

「子供が携帯のチャット機能でクラスメートに乱暴な言葉を使われ、心が傷ついた。携帯の上手な使い方を指導するのは、学校の責任だ。これからカリキュラムに取り入れて欲しい。」

・・・と、実際に聞いた事を、例として使ってみたが、「学校に求めるもの」が、我が家のそれとは、全然違う。

保護者の皆さん、それはそれは皆さん優秀でお金持ちの方々なのだが、多くのそういう方々にとって、「子供を私立に入れる」というのは、

「お金は払うので、その代わり、勉学は勿論の事、躾もお願いします。私の子供が良い友達に囲まれるかどうかは、学校の環境によるので、つまり学校の責任です。クラスの人数が少ないという点で私立を選んだのですから、私の子供の交友関係をきちんと把握し、そしてSNSの使い方をきちんと指導するのは、勿論学校の責任でしょう。食事は温かく手作りで栄養満点なものを個人サーバーがサーブして下さい。おやつはヘルシー且つ子供が喜ぶもの。スポーツは(勉学より)超大切なので、その点も力を入れるように。つまり、多忙を極める私達の代わりに、子育てをどうぞ宜しく。

そう、お金を払う対価として、学校に子育てをして貰っている感覚。

私は在米二十年以上なので、日本人家庭の感覚とはまた違うとは思うのだが、この「全て学校にお任せ」感に、文化の違いを凄く感じる。全く、共感できない。

さて話はもどり、個人面談での担任の先生の熱心さは、こういった保護者向けの、一種はセルフディフェンスだったり、パフォーマンス的(「私はこれだけやっていますよ。」)な部分が、絶対あると私は思ってる。だって、そうでもしないと、やられるから・・・。だから、私は先生の話を聞いていて、有難いのだけども、何だかいたたまれない気持ちになる。

我が家が学校に求めるのは、子供達がいい友達に恵まれること。楽しく学校に通える事。学校での学びから、刺激を得る事。細かい事は、いい事も悪い事もあるけど、あまり気にならない。いいカリキュラムもそうでないものも、いい先生もそうでない先生もいるが、それも人生・・。勉強は家でカバーできるし、先生がよくない場合は、社会勉強としてスルーしようと教えばいい。

学校の先生って、大変な仕事だ。適性がある上に、好きでないとやってられない。保護者の対応をするのにはタフではなくてはいけないが、子供の心に寄り添うには、繊細さを持ち合わせてないといけない。ある適度の学力は必要なのに、学校での勉強ができたタイプだと、意外と教える能力が低かったりする。子供の「分からない」が、分からないから。

『先生が我が子の先生でいてくださって、有難く幸せに思っています。いつも本当にありがとうございます。』

私が言いたいのは、毎年それだけだ。

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